遠い何処かで声が聞こえる。
音が頭の中で反響して、遠くの音なのか、近くの音なのかよく分からない。
何を言っているのかも分からない。なのに、自分が呼ばれている気がする。
散在していた意識の欠片が集束されていく。
「………ん…い。……ぱい!………篠村先輩!」
「…う…あぁ。………なんだ……安市かよ…」
俺はゆっくりと身を起こした。その背中を誰かに支えられる。目だけを向けると、久茂先輩が手を貸してくれていた。……驚く事に、一回も口を聞いたことの無い先輩が一番心配そうな顔つきで俺を見守っていた。
男三人か…。
それが顔に出たらしく、安市は普通に喋り出す。
「…あはは、心配してたのに第一声がそれっすか。可愛い女の子じゃなくて悪かったっすね。……大丈夫っすか? 何処か怪我は?」
「…う、まぁ…頭が潰れそうになる程痛い以外は大丈夫だ。……お前の声頭に響くんだよ、少し静かにしてくれ」
「なんでっすかね、篠村先輩の弱ってる一面が見れて嬉しいような気もするんすけど、たった今の一言で目を覚まさなければ良かったのにって思っちゃったじゃないっすか」
「心配してくれたのは、感謝するけど…客に怪我人はいなかったのか?」
「ええ、あの機械設置されてまだ二年目なのにあんな事になっちゃ困りますよね」
「それについてはモール側が責任は取るって言っていたけど……メーカー側も痛手だろうな」
「…あ、先輩方にもご迷惑おかけしました」
「それくらい大丈夫! 篠村くんに怪我がなりよりだよ、この大事な時期に人員が減るなんて困るからさ」
「なんか俺の時と態度が違う事に理不尽さを隠しきれないんすけど」
「あー、感謝してるありがとうありがとう」
「めっちゃ棒読み⁉︎」
「っ……」
「安市くん、だから大声出さない」
本当に機嫌が悪い。俺の意識が飛んでる間に何があったのかはわからないが、取り敢えず大惨事とまでは行かないようだった。
久茂先輩の背中を支える手を制して、もう大丈夫だと伝える。バックヤードの椅子にもたれかかる。あ…頭が揺れるとすげー痛む。
安市は腕を組んでロッカーに背を預けている。
「……あれ、仕事は大丈夫なんですか?」
「それは、なんか特例が出たっぽくて、一回のフードコードの店は営業できなくなってる。誰のせいでもないけど、単純にこれは損だな。他の店もいい迷惑だよって顔で嫌々従ってた」
「そう…ですか……」
なら、今日はもう帰るしかないだろう。店長がいないので、久茂先輩は営業時間終了間際まで残らないといけないが、しょうがない。久茂先輩は事の顛末を電話で店長に事細かに伝え、通話を切った直後「うわぁぁん……」と謎の鳴き声を上げた。
「…それにしても、篠村くんが倒れたのも驚いたけど、それより十秋(とあき)の慌てっぷりの方が凄かったな。あんなに取り乱しているのを初めて見た」
「……え?」
いきなり知らない名前を出されて困惑する。十秋って誰だ? 店長がそんな可愛い名前なんてあり得ないし。
俺が頭をひねっていると、久茂先輩の後方から初めて聞く様なか細い声がした。
「あ……それは…言わないで…」
「いやー、俺もびっくりしたっすよ。十秋先輩泣きそうだったっすもんね、わかりますよ? 戻って来たら篠村先輩が倒れてるなんて誰一人として想像してないっす」
安市が「誰一人として」の部分をやけに強調して言ったのはこの際無視する事にする。
痛む頭を回して、隠れておどおどしている人影に声をかけた。またいつもの様に無視されるかもしれない。今までバイト終わりの「お疲れ様です」に対して返答された試しがない。
「えっと、心配かけさせてすいませんでした」
「……っ」
そう言って、無口な先輩は顔をそらした。その顔を見つめて、もう一度声をかけてみる。確かめたいことがあるのだ。
「あの…先輩って……」
「……っっ」
「篠村くん、もう礼は重ねなくていいから」
久茂先輩が言葉を遮ってくる。が、構わずに続ける。
「いや、そうじゃなくて……先輩って…女子だったんですね」
俺の一声に空気が固まった。なんだろう、言ってはいけないことを言ってしまったのか。
俺は慌てて補足しようとするが、久茂先輩の笑い声が静寂を破った。
「…ぷっ…あははははははっ! 今更か! ほら、十秋! 自己紹介の時にちゃんと声出さないからこういう事になるんだって!」
「ち…違、ちゃんと……声なら出してるしぃ……」
否定しているのに、声がだんだん小さくなっていく。
そして、十秋(?)先輩は俺に初めて話しかけてきた。声は小さいけれど、よく聞けば、うん、確かに女子だ。少し頬が紅潮しているのは恥じらいからくるものだろうか。
「え…えっと、し…篠村くん、は私…が女子だって…知らなかったの?」
「まぁ、そうですけど。先輩の名前だって、失礼かもしれないですけど今知りました」
「じゃ…じゃあ、自己紹介の時に…私の声…聞こえてなかった?」
「はい、安市の鼻歌が五月蝿かったんで、それで聞こえてなかったと…」
十秋先輩は、喋り方も声も表情も、どこからどう見てもちゃんとした女の子だった。
初めての会話がこんなもので、少々寂しい気もする。まぁ名前と性別が判り、会話もできたんだからそれで良しとするか。
俺が感傷に浸っていると、十秋先輩は言葉を紡ぐ。
「じゃあ……私が…着替えてる…時に入って来たのは、その…いやらしい気持ちとか…じゃないの?」
「全然…そんな事…………………………って」
「…へぇ、篠村くんそんな事してたんだ。これは十秋の為にも…ちゃんと罰を課さないといけないな」
久茂先輩が正面に座る俺の肩を掴んでくる。
な、なんでしょう。久茂先輩、めっちゃ力入ってて痛いっす。それに罰って何⁉︎ 笑いながら怒る人の言う事って経験上とんでもない条件しか出してこないからめっちゃ怖い!
「だ、だって十秋先輩の事今まで男だと思ってたんですよ⁉︎ だから俺が「お疲れ様です」って言っても無視されてたの俺が嫌われてただけだと思って…」
「でも、だからと言ってやらかした事は帳消しに出来ないよ、十秋、このやらか篠村にどんな罰を?」
やらか篠村って何⁉︎ どんどん肩を掴む力が強くなって…。
久茂先輩の言葉に十秋先輩は困った様な表情を浮かべる。気の弱そうな性格っぽいから、急な振りには対応出来ないはず。まして優しい雰囲気しかないから出したところで大した事でも無いだろう。
「……じゃ…じゃあ、篠村くんのスマホのフォルダを見せてくれる?」
「……あぁ、そういう事ですか。わかりました」
十秋先輩の出した条件は、要するに俺が盗撮をしていないという証拠を見せろというとこなのだろう。スマホは大して使わないから、フォルダに溜まってるのはTwitterから拾ってきた動物の画像とかユーチューバーのイラストとかしか入ってない。
俺がポケットからスマホを出してパスワードを入力するや否や、久茂先輩が俺の手からスマホを掻っ攫う。
「じゃあ、確認させてもらうか」
「…どうぞ」
いや、確認するのはいいんだけど、久茂先輩も男だよね?
久茂先輩は十秋先輩を手招きする。
「さ、十秋。確認しよう」
「…え…えっと……」
しよう、って十秋先輩が戸惑う理由は理解できる。
久茂先輩、フォルダに自分の盗撮画像がある可能性があったら異性と確認出来ますか? 久茂先輩がそういう性癖だったらしょうがないけど、十秋先輩は許さないだろう。性格的に。
「…あ……久茂先輩も…男だから……確認するのは…私だけで……」
「え? だって店の責任者として確認するのは義務だろ?」
「久茂先輩、ただ十秋先輩の盗撮画像が見たいだけっすよね? それに、店の責任者がとかそんな話じゃなくて、当事者が確認出来ればそれでいい問題じゃねぇんすか?」
「や…安市くんと……同意見」
「俺もそう思います」
「…………ちっ」
「その舌打ちは見る機会を失った悔しさの舌打ちっすか⁉︎ 明らかに残念そうな顔を後輩の前でしないで欲しいっす!」
流石に三人から攻撃されれば久茂先輩もひとたまりも無い。渋々十秋先輩にスマホを渡した。……スマホを渡す時に久茂先輩の手が十秋先輩の細い手を包む様な手つきだったのはこの際見なかった事にしよう。
十秋先輩は真剣な表情で画面をスライドし始めた。
それを遠巻きに見守る男衆はひそひそと久茂先輩の性癖について話し始める。
「なんか、この中で一番盗撮とかやらかしそうなのって…久茂先輩な気がするっす」
「さっきの行動見てんなら安市も気をつけろよ。人のふり見て我がふり直せって多分今この時のために生まれた言葉だ」
「勝手に僕の事を変態扱いしないでくれるかな?」
「いやでも、その笑顔の下にまだ見た事の無い顔がもうひとつありそうっすよね」
「無いよ、それに全男子が歩む道じゃ無いか…。安市くんも、篠村くんも否定したってそういう気持ちになる事は不変の事実なんだから」
「これで何の画像も無かったら俺は久茂先輩から篠村先輩に謝って欲しい気がするっす…」
「あるって前提なのが俺への信頼感の無さを表してんな…」
「まずにこりともしないからね。笑わない相手をいきなり信用しろって言われても出来ないじゃないか」
「俺もー、篠村先輩がちゃんと笑顔できる人だって知って安心したっすよ。まだ高校生なのに保護者の気持ちがわかる気がするっすよ」
「俺どんだけ低評価なんだよ」
「保護者の気持ちがわかるなら、こんなとこでバイトなんかしてないで高校に行った方がいいんじゃ無いか?」
「大丈夫っすよ。両親俺に興味無いんで。俺がバイトしてるって事もきっと知らないっすよ」
「さっきの言葉全否定される発言だな。安市の両親どれだけ放任なんだよ」
「そもそも、安市くんも篠村くんも興味あるだろ? どんな女の子が好み?」
「それここで聞く事っすか……。場所わきまえ無いんすか?」
「男だろ? 引きこもりだろ? こんな面と向かってこういう話題を会話する機会なんて、そうそう無いだろうから気を使ってるんだよ」
「きっとチャットで毎日してるっすよ、そんなの」
「引きこもりだからそうゆう話に軽々しく乗ると思いますか?」
久茂先輩はチッチッと人差し指を振ると、確信犯的な笑みを浮かべて聞いてくる。何をそこまで話したいのかは謎だが、きっとこういう話題に疎い友達しかいないのかもしれない。
何なんだよ面倒くせえな、と思いつつも本能的に聞き耳を立ててしまうのは悲しい性だ。
安市も文句を言う割には困り眉のまま笑っている。
「……でさ、十秋って胸どれくらいだった?」
「あー、確かに十秋先輩って男性用の制服っすから、見た目じゃわからないっすよね」
………。
少しの間言葉を聞いてフリーズした。
ええと? 十秋先輩のバストのサイズの事言ってるのかな?
「十秋先輩が、えっと何です?」
「いやだから、十秋先輩の胸の大きさっすよ」
「はぁっ⁉︎ いきなり何を聞いて………………、あのなぁ直球すぎるだろ。第一本当に見てねえって」
「うわぁー、嘘でしょ? 篠村くん本当に男なの? 性欲ありますかー」
「だから男だと思ってた人の胸を凝視するとかあり得ないですって。……思い出してみても大体服着てたような気しかしませんよ?」
「篠村先輩ってウブなんすね」
「男として情けない…。いっそ十秋のロッカーにカメラ入れとくか?」
「いやそれは犯罪なんで遠慮したいっす…。篠村先輩、本当に見てないんすか?」
「スタイルは良かった…と思う。なんとなく」
「数字じゃなくて、見た目なんだよなぁ…。質感を知りたいのよ、僕は」
「久茂先輩生々しいっす。高校の後輩なんすよね? 体育着着てる時とか分かりやすくないっすか? むしろ久茂先輩の方が詳しいと思ってたんすけど」
「まぁ、ぶっちゃければ…十秋は……Aだ」
「……サイズまで知ってんすか。篠村先輩、久茂先輩やばいっすよ」
「俺も同じ事思った。要注意人物だ」
「二人ともなんか勘違いしてない?」
ここまで話していて十秋先輩が気づかない事を不思議に思ったが、ちらっと見ると、何やら画面を見て口が緩んだり、時々吹き出しそうになっている。あのスマホにはいわゆる普通の画像しか入ってない。俺が見ている事に気付かないという事はそれだけ集中しているのかもしれない。今なら、隣に行っても気付かれなさそうだ。
それは兎も角、久茂先輩が十秋先輩のカップを知っているのは、高校にいた時に何故か身体計測を一緒に回った事があるからだと言うのだ。久茂先輩の高校同様ほとんどの高校がそうだと思うが、身体計測に一日を学校が費やすのは驚かない。
計測する場所まで一緒では無いが、回る事は可能だろう。
十秋先輩がトイレに行った時に預けられた身体計測用紙を見たらしい。その時に十秋先輩のスリーサイズは把握済みだったらしい。というより、まんま写真に収めてあると言う。
話の途中、俺は「変態だろ…」と声に出すのを抑えて、話を聞いていた。
ただ、そこまで聞いていて気になった事が一つ。
「あの、久茂先輩と十秋先輩って同じ大学ですか?」
「ああ、そうだけど。学科も一緒だし」
「…………久茂先輩、今十秋先輩の事、どう思ってます?」
「どうって、ただの可愛い後輩だよ。同じ大学って知って時は流石に驚いたけど」
「そういう事じゃなくて、異性としてどう思ってるっすか」
「いやだから、ただの後輩だって」
俺から出なかった言葉を引き継いで安市が言いたい事を言ってくれた。が、答えを聞いて俺と安市は深くため息を吐いた。普通の人ならここまでの話で分かりそうなもんだけど…。
「安市、これ駄目だな」
「篠村先輩、これ駄目っすね」
「何がだよ」
駄目だ。久茂先輩、とんでもなく鈍感だ。これでは十秋先輩が可哀想に思えてくる。
高校の部活が同じは分かるが、大学と学科まで一緒となると、十秋先輩が久茂先輩に想いを寄せているとしか思えない。十秋先輩もそこまでやるとは、見た目によらず努力家だ。この恋が不発にならず実ってくれる事を祈るしかない。
「いや、良いんですよ。……十秋先輩、終わりました?」
「……あ、うん…。終わった……ありがとう…無かった」
「だから言ったでしょう? 本当に男だと思い込んでたんですよ」
これで今日は帰るだけだな。
それにしても、今日はやけに会話した気がするし、頭も使った気がする。会話しているだけなのに喉が痛い。自宅でのあの会話じゃ喉が強くなるわけでも、会話の練習になるわけでも無いみたいだ。
音が頭の中で反響して、遠くの音なのか、近くの音なのかよく分からない。
何を言っているのかも分からない。なのに、自分が呼ばれている気がする。
散在していた意識の欠片が集束されていく。
「………ん…い。……ぱい!………篠村先輩!」
「…う…あぁ。………なんだ……安市かよ…」
俺はゆっくりと身を起こした。その背中を誰かに支えられる。目だけを向けると、久茂先輩が手を貸してくれていた。……驚く事に、一回も口を聞いたことの無い先輩が一番心配そうな顔つきで俺を見守っていた。
男三人か…。
それが顔に出たらしく、安市は普通に喋り出す。
「…あはは、心配してたのに第一声がそれっすか。可愛い女の子じゃなくて悪かったっすね。……大丈夫っすか? 何処か怪我は?」
「…う、まぁ…頭が潰れそうになる程痛い以外は大丈夫だ。……お前の声頭に響くんだよ、少し静かにしてくれ」
「なんでっすかね、篠村先輩の弱ってる一面が見れて嬉しいような気もするんすけど、たった今の一言で目を覚まさなければ良かったのにって思っちゃったじゃないっすか」
「心配してくれたのは、感謝するけど…客に怪我人はいなかったのか?」
「ええ、あの機械設置されてまだ二年目なのにあんな事になっちゃ困りますよね」
「それについてはモール側が責任は取るって言っていたけど……メーカー側も痛手だろうな」
「…あ、先輩方にもご迷惑おかけしました」
「それくらい大丈夫! 篠村くんに怪我がなりよりだよ、この大事な時期に人員が減るなんて困るからさ」
「なんか俺の時と態度が違う事に理不尽さを隠しきれないんすけど」
「あー、感謝してるありがとうありがとう」
「めっちゃ棒読み⁉︎」
「っ……」
「安市くん、だから大声出さない」
本当に機嫌が悪い。俺の意識が飛んでる間に何があったのかはわからないが、取り敢えず大惨事とまでは行かないようだった。
久茂先輩の背中を支える手を制して、もう大丈夫だと伝える。バックヤードの椅子にもたれかかる。あ…頭が揺れるとすげー痛む。
安市は腕を組んでロッカーに背を預けている。
「……あれ、仕事は大丈夫なんですか?」
「それは、なんか特例が出たっぽくて、一回のフードコードの店は営業できなくなってる。誰のせいでもないけど、単純にこれは損だな。他の店もいい迷惑だよって顔で嫌々従ってた」
「そう…ですか……」
なら、今日はもう帰るしかないだろう。店長がいないので、久茂先輩は営業時間終了間際まで残らないといけないが、しょうがない。久茂先輩は事の顛末を電話で店長に事細かに伝え、通話を切った直後「うわぁぁん……」と謎の鳴き声を上げた。
「…それにしても、篠村くんが倒れたのも驚いたけど、それより十秋(とあき)の慌てっぷりの方が凄かったな。あんなに取り乱しているのを初めて見た」
「……え?」
いきなり知らない名前を出されて困惑する。十秋って誰だ? 店長がそんな可愛い名前なんてあり得ないし。
俺が頭をひねっていると、久茂先輩の後方から初めて聞く様なか細い声がした。
「あ……それは…言わないで…」
「いやー、俺もびっくりしたっすよ。十秋先輩泣きそうだったっすもんね、わかりますよ? 戻って来たら篠村先輩が倒れてるなんて誰一人として想像してないっす」
安市が「誰一人として」の部分をやけに強調して言ったのはこの際無視する事にする。
痛む頭を回して、隠れておどおどしている人影に声をかけた。またいつもの様に無視されるかもしれない。今までバイト終わりの「お疲れ様です」に対して返答された試しがない。
「えっと、心配かけさせてすいませんでした」
「……っ」
そう言って、無口な先輩は顔をそらした。その顔を見つめて、もう一度声をかけてみる。確かめたいことがあるのだ。
「あの…先輩って……」
「……っっ」
「篠村くん、もう礼は重ねなくていいから」
久茂先輩が言葉を遮ってくる。が、構わずに続ける。
「いや、そうじゃなくて……先輩って…女子だったんですね」
俺の一声に空気が固まった。なんだろう、言ってはいけないことを言ってしまったのか。
俺は慌てて補足しようとするが、久茂先輩の笑い声が静寂を破った。
「…ぷっ…あははははははっ! 今更か! ほら、十秋! 自己紹介の時にちゃんと声出さないからこういう事になるんだって!」
「ち…違、ちゃんと……声なら出してるしぃ……」
否定しているのに、声がだんだん小さくなっていく。
そして、十秋(?)先輩は俺に初めて話しかけてきた。声は小さいけれど、よく聞けば、うん、確かに女子だ。少し頬が紅潮しているのは恥じらいからくるものだろうか。
「え…えっと、し…篠村くん、は私…が女子だって…知らなかったの?」
「まぁ、そうですけど。先輩の名前だって、失礼かもしれないですけど今知りました」
「じゃ…じゃあ、自己紹介の時に…私の声…聞こえてなかった?」
「はい、安市の鼻歌が五月蝿かったんで、それで聞こえてなかったと…」
十秋先輩は、喋り方も声も表情も、どこからどう見てもちゃんとした女の子だった。
初めての会話がこんなもので、少々寂しい気もする。まぁ名前と性別が判り、会話もできたんだからそれで良しとするか。
俺が感傷に浸っていると、十秋先輩は言葉を紡ぐ。
「じゃあ……私が…着替えてる…時に入って来たのは、その…いやらしい気持ちとか…じゃないの?」
「全然…そんな事…………………………って」
「…へぇ、篠村くんそんな事してたんだ。これは十秋の為にも…ちゃんと罰を課さないといけないな」
久茂先輩が正面に座る俺の肩を掴んでくる。
な、なんでしょう。久茂先輩、めっちゃ力入ってて痛いっす。それに罰って何⁉︎ 笑いながら怒る人の言う事って経験上とんでもない条件しか出してこないからめっちゃ怖い!
「だ、だって十秋先輩の事今まで男だと思ってたんですよ⁉︎ だから俺が「お疲れ様です」って言っても無視されてたの俺が嫌われてただけだと思って…」
「でも、だからと言ってやらかした事は帳消しに出来ないよ、十秋、このやらか篠村にどんな罰を?」
やらか篠村って何⁉︎ どんどん肩を掴む力が強くなって…。
久茂先輩の言葉に十秋先輩は困った様な表情を浮かべる。気の弱そうな性格っぽいから、急な振りには対応出来ないはず。まして優しい雰囲気しかないから出したところで大した事でも無いだろう。
「……じゃ…じゃあ、篠村くんのスマホのフォルダを見せてくれる?」
「……あぁ、そういう事ですか。わかりました」
十秋先輩の出した条件は、要するに俺が盗撮をしていないという証拠を見せろというとこなのだろう。スマホは大して使わないから、フォルダに溜まってるのはTwitterから拾ってきた動物の画像とかユーチューバーのイラストとかしか入ってない。
俺がポケットからスマホを出してパスワードを入力するや否や、久茂先輩が俺の手からスマホを掻っ攫う。
「じゃあ、確認させてもらうか」
「…どうぞ」
いや、確認するのはいいんだけど、久茂先輩も男だよね?
久茂先輩は十秋先輩を手招きする。
「さ、十秋。確認しよう」
「…え…えっと……」
しよう、って十秋先輩が戸惑う理由は理解できる。
久茂先輩、フォルダに自分の盗撮画像がある可能性があったら異性と確認出来ますか? 久茂先輩がそういう性癖だったらしょうがないけど、十秋先輩は許さないだろう。性格的に。
「…あ……久茂先輩も…男だから……確認するのは…私だけで……」
「え? だって店の責任者として確認するのは義務だろ?」
「久茂先輩、ただ十秋先輩の盗撮画像が見たいだけっすよね? それに、店の責任者がとかそんな話じゃなくて、当事者が確認出来ればそれでいい問題じゃねぇんすか?」
「や…安市くんと……同意見」
「俺もそう思います」
「…………ちっ」
「その舌打ちは見る機会を失った悔しさの舌打ちっすか⁉︎ 明らかに残念そうな顔を後輩の前でしないで欲しいっす!」
流石に三人から攻撃されれば久茂先輩もひとたまりも無い。渋々十秋先輩にスマホを渡した。……スマホを渡す時に久茂先輩の手が十秋先輩の細い手を包む様な手つきだったのはこの際見なかった事にしよう。
十秋先輩は真剣な表情で画面をスライドし始めた。
それを遠巻きに見守る男衆はひそひそと久茂先輩の性癖について話し始める。
「なんか、この中で一番盗撮とかやらかしそうなのって…久茂先輩な気がするっす」
「さっきの行動見てんなら安市も気をつけろよ。人のふり見て我がふり直せって多分今この時のために生まれた言葉だ」
「勝手に僕の事を変態扱いしないでくれるかな?」
「いやでも、その笑顔の下にまだ見た事の無い顔がもうひとつありそうっすよね」
「無いよ、それに全男子が歩む道じゃ無いか…。安市くんも、篠村くんも否定したってそういう気持ちになる事は不変の事実なんだから」
「これで何の画像も無かったら俺は久茂先輩から篠村先輩に謝って欲しい気がするっす…」
「あるって前提なのが俺への信頼感の無さを表してんな…」
「まずにこりともしないからね。笑わない相手をいきなり信用しろって言われても出来ないじゃないか」
「俺もー、篠村先輩がちゃんと笑顔できる人だって知って安心したっすよ。まだ高校生なのに保護者の気持ちがわかる気がするっすよ」
「俺どんだけ低評価なんだよ」
「保護者の気持ちがわかるなら、こんなとこでバイトなんかしてないで高校に行った方がいいんじゃ無いか?」
「大丈夫っすよ。両親俺に興味無いんで。俺がバイトしてるって事もきっと知らないっすよ」
「さっきの言葉全否定される発言だな。安市の両親どれだけ放任なんだよ」
「そもそも、安市くんも篠村くんも興味あるだろ? どんな女の子が好み?」
「それここで聞く事っすか……。場所わきまえ無いんすか?」
「男だろ? 引きこもりだろ? こんな面と向かってこういう話題を会話する機会なんて、そうそう無いだろうから気を使ってるんだよ」
「きっとチャットで毎日してるっすよ、そんなの」
「引きこもりだからそうゆう話に軽々しく乗ると思いますか?」
久茂先輩はチッチッと人差し指を振ると、確信犯的な笑みを浮かべて聞いてくる。何をそこまで話したいのかは謎だが、きっとこういう話題に疎い友達しかいないのかもしれない。
何なんだよ面倒くせえな、と思いつつも本能的に聞き耳を立ててしまうのは悲しい性だ。
安市も文句を言う割には困り眉のまま笑っている。
「……でさ、十秋って胸どれくらいだった?」
「あー、確かに十秋先輩って男性用の制服っすから、見た目じゃわからないっすよね」
………。
少しの間言葉を聞いてフリーズした。
ええと? 十秋先輩のバストのサイズの事言ってるのかな?
「十秋先輩が、えっと何です?」
「いやだから、十秋先輩の胸の大きさっすよ」
「はぁっ⁉︎ いきなり何を聞いて………………、あのなぁ直球すぎるだろ。第一本当に見てねえって」
「うわぁー、嘘でしょ? 篠村くん本当に男なの? 性欲ありますかー」
「だから男だと思ってた人の胸を凝視するとかあり得ないですって。……思い出してみても大体服着てたような気しかしませんよ?」
「篠村先輩ってウブなんすね」
「男として情けない…。いっそ十秋のロッカーにカメラ入れとくか?」
「いやそれは犯罪なんで遠慮したいっす…。篠村先輩、本当に見てないんすか?」
「スタイルは良かった…と思う。なんとなく」
「数字じゃなくて、見た目なんだよなぁ…。質感を知りたいのよ、僕は」
「久茂先輩生々しいっす。高校の後輩なんすよね? 体育着着てる時とか分かりやすくないっすか? むしろ久茂先輩の方が詳しいと思ってたんすけど」
「まぁ、ぶっちゃければ…十秋は……Aだ」
「……サイズまで知ってんすか。篠村先輩、久茂先輩やばいっすよ」
「俺も同じ事思った。要注意人物だ」
「二人ともなんか勘違いしてない?」
ここまで話していて十秋先輩が気づかない事を不思議に思ったが、ちらっと見ると、何やら画面を見て口が緩んだり、時々吹き出しそうになっている。あのスマホにはいわゆる普通の画像しか入ってない。俺が見ている事に気付かないという事はそれだけ集中しているのかもしれない。今なら、隣に行っても気付かれなさそうだ。
それは兎も角、久茂先輩が十秋先輩のカップを知っているのは、高校にいた時に何故か身体計測を一緒に回った事があるからだと言うのだ。久茂先輩の高校同様ほとんどの高校がそうだと思うが、身体計測に一日を学校が費やすのは驚かない。
計測する場所まで一緒では無いが、回る事は可能だろう。
十秋先輩がトイレに行った時に預けられた身体計測用紙を見たらしい。その時に十秋先輩のスリーサイズは把握済みだったらしい。というより、まんま写真に収めてあると言う。
話の途中、俺は「変態だろ…」と声に出すのを抑えて、話を聞いていた。
ただ、そこまで聞いていて気になった事が一つ。
「あの、久茂先輩と十秋先輩って同じ大学ですか?」
「ああ、そうだけど。学科も一緒だし」
「…………久茂先輩、今十秋先輩の事、どう思ってます?」
「どうって、ただの可愛い後輩だよ。同じ大学って知って時は流石に驚いたけど」
「そういう事じゃなくて、異性としてどう思ってるっすか」
「いやだから、ただの後輩だって」
俺から出なかった言葉を引き継いで安市が言いたい事を言ってくれた。が、答えを聞いて俺と安市は深くため息を吐いた。普通の人ならここまでの話で分かりそうなもんだけど…。
「安市、これ駄目だな」
「篠村先輩、これ駄目っすね」
「何がだよ」
駄目だ。久茂先輩、とんでもなく鈍感だ。これでは十秋先輩が可哀想に思えてくる。
高校の部活が同じは分かるが、大学と学科まで一緒となると、十秋先輩が久茂先輩に想いを寄せているとしか思えない。十秋先輩もそこまでやるとは、見た目によらず努力家だ。この恋が不発にならず実ってくれる事を祈るしかない。
「いや、良いんですよ。……十秋先輩、終わりました?」
「……あ、うん…。終わった……ありがとう…無かった」
「だから言ったでしょう? 本当に男だと思い込んでたんですよ」
これで今日は帰るだけだな。
それにしても、今日はやけに会話した気がするし、頭も使った気がする。会話しているだけなのに喉が痛い。自宅でのあの会話じゃ喉が強くなるわけでも、会話の練習になるわけでも無いみたいだ。
