チュンチュンと小鳥のさえずりで目が覚めた……ら良かったのに、と目をぼんやりと開いた
ナツキは、心の中で愚痴を吐いた。
「ご主人様! 起きて下さい!」
「なんだ……? わ、もうこんな時間か」
「それよりも! 服を脱いで湖で溺れて下さい! 時間は無いので早くっ」
「は? いやいやなにを……おいこら!!」
疲労からか長く寝ていたナツキを叩き起こすと、手を引っ張り湖まで走って行った。
湖につくと、ナツキの服を剥ぎ取り湖に突き落とした。
「お前、俺に恨みでもあるのか?! い、いきなりで泳げなっ……ゴプッ」
「よし!」
「よ、よしじゃな、ゴポッ」
ここの湖は底が深い。バシャバシャともがくナツキを置いて、剥ぎ取った服をさっさと茂みに隠してしまった。すると丁度そこへ馬車に乗り、散歩をしに来た王と王女の姿を見た。
ミハルは焦ったような顔を作ると、王と王女の元へ飛び出した。
王はミハルの焦った表情に戸惑う。
「おお、ミハルではないか。どうしたんじゃ」
「実は王様! ご主人様であるカラバ侯爵が水浴びをしていると溺れてしまって、更に盗賊に服を盗まれたのです。お助け下さい王様!!」
涙で目を潤ませるミハルの演技に騙された王は、「可哀想に、カラバ侯爵に服を」と使いの者に言って、カラバ侯爵……ナツキに服を渡させた。
「おおう、そうだ。貴方にはいつも世話になっておる。一緒に散歩して下さらぬか」
「え、あ、はい」
ナツキは服を着ながら答えた。
ミハルにそっと耳打ちをする。
「なあ、何がどうなってんだ」
「後になれば分かりますよ。ほら、水面を見てみなさい」
「……これは」
水面を見ると映っているのは、スッとした輪郭と鼻、長い睫毛に涼やかな目元、薄い唇は形が良い。黒く輝く濡れた髪もどこか艶かしい。
まさに美青年そのものだった。
ミハルはナツキのその本当の姿を見て最初は戸惑っていた。傍にいた人はこんなにも美しい人だったなんて。
ナツキは裕福な暮らしになってからも、今までの貧相な暮らしや服をやめなかった。ミハルがせめて顔を洗えと言っても、「落ち着かないしなんだか申し訳ない」と言って、顔や髪を洗うのも寝る前だけで、朝起きたらわざと顔に煤を塗ってしまうのだ。
ナツキ自身も自分の顔をまともに見たことがなかったのだ。
故に想像以上に美しいナツキの姿に、心臓がバクバクとなっているのを抑えれなかった。
(なんだか、熱い)
身体中に熱が集まった。それは確かに知っている感情だったが、気付かないふりをした。
「さ、カラバ侯爵よ。馬車へ」
「失礼します」
ナツキが馬車に乗ると、自分のやるべき事に集中するようにと、自分の頰を叩く。
馬車が進むのを見届けると、誰よりも早く、魔法使いの領地へ駆けていった。
大きな麦畑が見えた。麦を収穫している人が何百人もいる。
ミハルは立ち止まると、人々に大声で話しかけた。
「これお前達。この麦畑は誰のものだ?」
「魔法使い様のものですが」
「ふーん。今からここを王様の馬車が通られる。『誰のものだ』と聞かれたら、お前達は『カラバ侯爵様のものです』と答えなさい」
衝撃的な言葉だった。騒めくがミハルが声を張りあげる。
「もし言う通りにしなかったら!」
騒めきが消え、辺りはシーンと静かになった、
ミハルは風に真っ黒な髪を揺らしながら、人々の心に入り込むように、ニタリと艶やかに微笑む。それは悪魔のように、不幸を呼ぶ黒猫のように。
「お前達は、その心臓を握り潰されるだろう……」
「ひっ」
いつもより低い声に媚は含められていなかった。含められていたのは支配だ。
周りを見回し、人々の心に恐怖が切り刻まれた事を確認すると、風に溶けるようにまた駆けていった。
畑に続き森と……魔法使いの領地に行っては脅し恐怖を刻んだ。
やがて大きな城が見えた。邪気が強く、殺気のようなチリチリとしたものが肌に張り付いてくるようだった。
太陽の暖かな光もなく、ただ暗く寒気がする。
ミハルは城の中を黙々と進んでいった。この世のものではない何かが足首や首元を触れてきたり、ジトリと見て壁にスゥ……と消えていったのを見た。
真っ黒な大きな扉の前に立つと、「入れ」と地を這うような低い声が聞こえた。扉がギギギと鈍い音を立てながら勝手に開いた。
暗闇の中、蝋燭に火が灯る。火を灯しながら暗い部屋の奥に、ゆらゆらと揺れる黒い影がある。
「突然の訪問申し訳ありません。ここに魔法使い様がいると聞いて」
「ほう、その魔法使いとは我のことだな。お前は?」
低い声の主がミハルを見ている。目があるのかは分からないが、確かにこちらに視線を注がれているのを感じた。
「僕は長靴を履いた猫でございます」
「長靴を履いた猫……確かにその耳と尻尾は猫のものだな。はて、猫殿は何をしに来たのだ?」
「実は噂で魔法使い様が姿を変える魔法を使うと聞いて……本当に使えるのなら見てみたいと」
「本当に、だと? 疑っているのか猫殿」
「いえ、失礼な事を言いました。あの、犬や猫に姿を変えるというのなら分かるのですが、大きな動物になるなんて、と」
「それくらい、容易いぞ」
ゆらゆらと揺れていた影は、霧のように形を変え象になった。
ミハルは「わあ」と感嘆を漏らした。目をキラキラと輝かせて、媚びを売るように魔法使いに近寄る。
「おおっ、これは……! 素晴らしい!」
「ほら、嘘でないことが分かっただろう」
低い声は少し弾んだような声に変わっていた。ミハルに褒められたことに得意げになっている。
「あ、あの。大きなものに変われるのは分かりました。もしかして、ものすごく小さな……鼠に姿を変えれることも?」
「もしかして、ではない。それも出来るぞ」
今度は象の影が鼠の形に変わっていく。ミハルは鼠になった魔法使いを、そっと持つと撫でる。魔法使いはすっかり気を許したのか鼻をヒクヒクとさせながら、手に擦り寄った。
ギチ。
「ぎっ!?」
ギチギチと鼠の身体にミハルの長い爪が食い込む。ミハルは、鼠をゴクリと一口で飲み干した。
床がぴしりと割れ、黒い影が風になる。激しい風が身を襲う。ミハルは目を瞑り耳を塞ぎ耐えた。
なんの音も聞こえなくなり、風が静まった。目を開けると、金で詰められた床や壁、装飾として飾られた宝石がキラキラと輝いた。
「……計画通りだ。あとは……ご主人様を待つのみ」
──これで恩返しができる。
ミハルは少し潤んだ目を擦った。
ナツキは王の会話に相槌を打ちながら、熱い視線……王女に目を向けた。このやり取りを何度もしているのだが、何故かあっちからは見る癖にこちらが目を合わせようとすると、顔を赤らめてそっぽを向いてしまうのだ。
それは勿論、王女がナツキに見惚れて目を合わせるのが恥ずかしいだけなのだが、ナツキは今まで粉挽屋の末っ子という立ち位置、顔もいつも汚していたからか誰にもそういった感情を向けられる事はなかった。
故に、王女の態度が冷たく思えてしまうのだった。
(俺は、なにか失礼なことをしてしまっただろうか)
そうこう考えているうちに、今はいなくなった魔法使いの領地へ入った。
「おお、大きな麦畑じゃのう。これそこの者。ここの麦畑は誰の者じゃ?」
「カラバ侯爵様のものです」
「ほう! 素晴らしい麦畑をお持ちですな」
「え? いやこれ俺のじゃな……」
「さて、進もうか」
──話を聞かない王様だな……。
否定しようとしたが途中で遮られてしまった。
次は森。次は──としているうちに、城へ着いた。
「ようこそ、おいで下さいました。ご主人様を助けて頂いたお礼に珍しい果物などがあるので、どうぞ」
馬車がついた所は、魔法使いが居なくなり、本来の姿を取り戻した大きな城だった。
金色に輝く床や、赤緑紫と光る宝石に、ぽっかりと口を開けたまま王は案内された。
王女は、輝く城とこと城の持ち主であるナツキをそわそわと見ていた。
(なんて素敵な人なのかしら……王子様みたい)
奥の部屋へ着くと、長い楕円型のテーブルに椅子が並べてあった。テーブルの上には、シャンデリアに当てられキラキラと輝く果物や洋菓子。
暫く、王と王女、ナツキは果物や洋菓子を食べ、酒を飲んだ。
酔っ払いかけている王が王女の背中を叩きながら、ナツキに言った。
「なあ、カラバ侯爵よ」
「……なんでしょうか」
「貴方ほど素晴らしい人はいない。儂の娘と結婚してくれないか」
「え?」
ナツキは自分の耳を疑った。それはそうだ。粉挽屋の末っ子としてパッとしない人生を送ってきたナツキには、とても考えられないことだ。
ミハルをチラリと見ると、にっこりと笑っていた。
ミハルの目的はこれだった。
王に気に入られれば、必然的に娘である王女と結婚する。結婚したら、もう苦労はしなくていい。王の仕事は自分がやればいい。
ナツキだけは、富と名誉と楽という幸せを手に入れることが出来る。
これが一番ナツキが幸せになれる道──。
ミハルは、痛む胸を、穴が空いた心を隠すように、にっこりと笑っていた。
(二人だけの生活は終わりですね。幸せになって下さい。これが僕の恩返し)
「……」
「どうじゃ、ナツキ。儂の娘と結婚してくれないか」
(何やってるんだよご主人様……! 早く『はい』って言ってよ……!)
ナツキは口を固く閉じているだけだ。
うんともすんとも言わないナツキに、苛立ちと焦りを覚えるミハル。
そして、ナツキはゆっくりと目を開け、深く息を吐き出した。
目には、決意。
「王様、とてもありがたくおもいます。
でも、結婚は断らせて頂きます」
「は!?」
「うむ、何故か聞かせて貰おうか?」
王が真剣な眼差しでナツキを見る。
「俺は何も王女様が嫌いだとかそんな理由で言ったわけではありません。ただ、俺には一人にしてはいけない人がいるのです」
「……一人にしてはいけない人、とな?」
「ええ」
ミハルは胸がざわついた。一人にしてはいけない人……そんな大切な人がナツキにいたのか。大切な恋人か。しかし、ナツキが自らその可能性を否定する。
「恋人ではないのですが。家族です」
「家族?」
「ええ、いるじゃないですか。そこでアホ面してる猫ですよ」
「え?」
ミハルはキョロキョロと見回した。何処にも猫なんていない。
「お前だよ、ミハル」
「え!?」
「ミハルか?」
「はい。そもそも、俺が野うさぎに罠をかけれるようになったのも、こんな生活が出来るようになったのもミハルのおかげなんです。いつも俺の為にって頑張ってくれて」
「なら、娘と結婚して、ミハルにも楽な生活に、」
「いいえ。ミハルはきっと俺が結婚しても、自分から俺の仕事を全部やったりだとか無茶して、楽な生活にはならないでしょう」
ギクリと肩を揺らした。なぜ自分の考えている事が気づかれたのか。
「ミハルは、ヘラヘラしてたり、上から目線だったり、腹立つやつですけど、無茶してたりとか、心配させないようにだとか、変な気遣いするやつです。ほっとけないんです。
大切な人だから」
「!!」
「ミハルにも、俺にも、お互いしかもう家族がいないんです。ミハルを置いて行きたくないのです」
「……娘よ、初恋敗れたり、じゃな。今日はありがとう。これからも友好的な関係であることを誓おう」
王は涙を溜めている王女の背中をさすりながら、悟ったように優しく笑いながら帰って行った。
部屋の中は酷く静かになった。
「……な、んで」
「なんだ?」
「なんで! 断ったんですか!」
「言っただろう。お前を置いていけない」
「馬鹿なんですか?! 僕はちゃんとついていきますし、別に一人でも寂しいとか無いですし、大丈夫だったのに!」
「嘘つけ」
「嘘じゃ無い!」
「なら笑ってみろ!!」
ドンッとナツキがテーブルを叩いた。ミハルは、こんなに怒るナツキを見た事がなかった。
嫌われてしまう、と怖くなってしまった。
怯えと震えを気付かれないように、声を低くして言った。
「笑ってみろってなんですか。ふざけてるんですか」
「お前こそふざけるな。大丈夫なら、今笑えるだろう」
「わ、笑ってますよこれでも」
「……やっぱり嘘じゃないか。笑えてない」
ナツキがスタスタとこちらに歩いてくる。後ずさりしても、後ろには壁。ナツキがミハルの横に手をついた。「ぴっ」と小さな悲鳴をあげる。逃げ場は無く、ナツキはもう一つの手でミハルの顎を持ち、無理矢理目を合わせる。
ナツキの手に、水が流れる。涙だった。
「ほら、泣いてる」
「泣いてなんか……無いですよ」
「なんで、お前は笑えないんだ。なんで泣いてるんだ」
「関係無いでしょ」
「…………関係あるに決まっている。お前は俺の大切なやつだから」
「にゃっ!!?」
ナツキは初めてふっと笑うと、ミハルを抱きしめた。背中を赤子にするようにポンポンと叩く。ミハルには酷く落ち着くものだった。人の温もりが心地よい。
「あ、ご主人様……?」
「泣いていい」
「!」
「笑っていい。愚痴を吐いてもいい。感情を押し殺すな。これは主人の命令だ」
「……ずるいですよ。離れられなくなっちゃうじゃ無いですか」
「離れるなんて無いだろ。家族だろ」
「……」
ミハルは心のこびりついた黒い何かが、ボロボロと剥がれるのを感じた。我慢していた感情が溢れる。
ミハルは声を上げる代わりに、ナツキの胸を叩きながら泣いた。涙がナツキの服に吸い込まれるたびに、ミハルは心が軽くなった気がした。
──やっぱり優しいな。ご主人様は。
ナツキは今でも抱きしめてくれている。温もりが愛おしい。
ナツキ。大切な人。僕の為に、幸せになれる道を捨てて。
こんな僕に優しくしてくれた。必要としてくれた。
どうしてそんな人を、「愛せない」などと言えようか。
言えるはずがない。
彼は僕の──。
もう、我慢は出来なかった。
「ご主人様……」
「なんだ?」
「ご主人様、僕を愛してくれますか?」
「なんだ急に、気色悪いな。勿論愛してる」
「そうですか。よし」
「? よし?」
「ご主人様、ずっと前からお慕いしてます。結婚しましょう」
「ああ。……あ?」
「結婚指輪買わないとですね」
「は?」
「幸せになりましょうね。子供何人欲しいですか。三人ですかねやっぱり。あ、でも僕もご主人様も男だから産めないですね」
「おい待て。今なんの話だ?」
「ご主人様と僕って〜、ほら、結婚するじゃないですか」
「結婚? まてどんな流れでその話になる?」
「え? 愛してくれるんですよね?」
「あのな、家族的な意味であって別にそういう意味じゃ、」
「結婚したら家族です」
「そうだが家族のジャンルが違うだろう……! お前が言ってるのは……」
「ご主人様。聞いて下さい」
「……な、なんだ」
「ご主人様はずっと僕を見捨てないでいてくれました。僕、愛してるんです。もう我慢の限界です。もう抑えられないんですよ。……ね、僕だけを見ていて下さいね?」
そう言ったミハルは、口を三日月の形に浮かべ、目にはうっとりとしたような、熱いような、狂気的な妖しい光が灯っていた。
──これはいけないやつだ。
ナツキは直感的に悟った。逃げないと。
「 お、お前、俺達は男だし、そもそも人間と猫って……」
「ご主人様、結婚しましょう」
「話を聞け馬鹿!」
長靴を履いた黒猫は、どうやら主人に惚れてしまったらしい。
ナツキは、心の中で愚痴を吐いた。
「ご主人様! 起きて下さい!」
「なんだ……? わ、もうこんな時間か」
「それよりも! 服を脱いで湖で溺れて下さい! 時間は無いので早くっ」
「は? いやいやなにを……おいこら!!」
疲労からか長く寝ていたナツキを叩き起こすと、手を引っ張り湖まで走って行った。
湖につくと、ナツキの服を剥ぎ取り湖に突き落とした。
「お前、俺に恨みでもあるのか?! い、いきなりで泳げなっ……ゴプッ」
「よし!」
「よ、よしじゃな、ゴポッ」
ここの湖は底が深い。バシャバシャともがくナツキを置いて、剥ぎ取った服をさっさと茂みに隠してしまった。すると丁度そこへ馬車に乗り、散歩をしに来た王と王女の姿を見た。
ミハルは焦ったような顔を作ると、王と王女の元へ飛び出した。
王はミハルの焦った表情に戸惑う。
「おお、ミハルではないか。どうしたんじゃ」
「実は王様! ご主人様であるカラバ侯爵が水浴びをしていると溺れてしまって、更に盗賊に服を盗まれたのです。お助け下さい王様!!」
涙で目を潤ませるミハルの演技に騙された王は、「可哀想に、カラバ侯爵に服を」と使いの者に言って、カラバ侯爵……ナツキに服を渡させた。
「おおう、そうだ。貴方にはいつも世話になっておる。一緒に散歩して下さらぬか」
「え、あ、はい」
ナツキは服を着ながら答えた。
ミハルにそっと耳打ちをする。
「なあ、何がどうなってんだ」
「後になれば分かりますよ。ほら、水面を見てみなさい」
「……これは」
水面を見ると映っているのは、スッとした輪郭と鼻、長い睫毛に涼やかな目元、薄い唇は形が良い。黒く輝く濡れた髪もどこか艶かしい。
まさに美青年そのものだった。
ミハルはナツキのその本当の姿を見て最初は戸惑っていた。傍にいた人はこんなにも美しい人だったなんて。
ナツキは裕福な暮らしになってからも、今までの貧相な暮らしや服をやめなかった。ミハルがせめて顔を洗えと言っても、「落ち着かないしなんだか申し訳ない」と言って、顔や髪を洗うのも寝る前だけで、朝起きたらわざと顔に煤を塗ってしまうのだ。
ナツキ自身も自分の顔をまともに見たことがなかったのだ。
故に想像以上に美しいナツキの姿に、心臓がバクバクとなっているのを抑えれなかった。
(なんだか、熱い)
身体中に熱が集まった。それは確かに知っている感情だったが、気付かないふりをした。
「さ、カラバ侯爵よ。馬車へ」
「失礼します」
ナツキが馬車に乗ると、自分のやるべき事に集中するようにと、自分の頰を叩く。
馬車が進むのを見届けると、誰よりも早く、魔法使いの領地へ駆けていった。
大きな麦畑が見えた。麦を収穫している人が何百人もいる。
ミハルは立ち止まると、人々に大声で話しかけた。
「これお前達。この麦畑は誰のものだ?」
「魔法使い様のものですが」
「ふーん。今からここを王様の馬車が通られる。『誰のものだ』と聞かれたら、お前達は『カラバ侯爵様のものです』と答えなさい」
衝撃的な言葉だった。騒めくがミハルが声を張りあげる。
「もし言う通りにしなかったら!」
騒めきが消え、辺りはシーンと静かになった、
ミハルは風に真っ黒な髪を揺らしながら、人々の心に入り込むように、ニタリと艶やかに微笑む。それは悪魔のように、不幸を呼ぶ黒猫のように。
「お前達は、その心臓を握り潰されるだろう……」
「ひっ」
いつもより低い声に媚は含められていなかった。含められていたのは支配だ。
周りを見回し、人々の心に恐怖が切り刻まれた事を確認すると、風に溶けるようにまた駆けていった。
畑に続き森と……魔法使いの領地に行っては脅し恐怖を刻んだ。
やがて大きな城が見えた。邪気が強く、殺気のようなチリチリとしたものが肌に張り付いてくるようだった。
太陽の暖かな光もなく、ただ暗く寒気がする。
ミハルは城の中を黙々と進んでいった。この世のものではない何かが足首や首元を触れてきたり、ジトリと見て壁にスゥ……と消えていったのを見た。
真っ黒な大きな扉の前に立つと、「入れ」と地を這うような低い声が聞こえた。扉がギギギと鈍い音を立てながら勝手に開いた。
暗闇の中、蝋燭に火が灯る。火を灯しながら暗い部屋の奥に、ゆらゆらと揺れる黒い影がある。
「突然の訪問申し訳ありません。ここに魔法使い様がいると聞いて」
「ほう、その魔法使いとは我のことだな。お前は?」
低い声の主がミハルを見ている。目があるのかは分からないが、確かにこちらに視線を注がれているのを感じた。
「僕は長靴を履いた猫でございます」
「長靴を履いた猫……確かにその耳と尻尾は猫のものだな。はて、猫殿は何をしに来たのだ?」
「実は噂で魔法使い様が姿を変える魔法を使うと聞いて……本当に使えるのなら見てみたいと」
「本当に、だと? 疑っているのか猫殿」
「いえ、失礼な事を言いました。あの、犬や猫に姿を変えるというのなら分かるのですが、大きな動物になるなんて、と」
「それくらい、容易いぞ」
ゆらゆらと揺れていた影は、霧のように形を変え象になった。
ミハルは「わあ」と感嘆を漏らした。目をキラキラと輝かせて、媚びを売るように魔法使いに近寄る。
「おおっ、これは……! 素晴らしい!」
「ほら、嘘でないことが分かっただろう」
低い声は少し弾んだような声に変わっていた。ミハルに褒められたことに得意げになっている。
「あ、あの。大きなものに変われるのは分かりました。もしかして、ものすごく小さな……鼠に姿を変えれることも?」
「もしかして、ではない。それも出来るぞ」
今度は象の影が鼠の形に変わっていく。ミハルは鼠になった魔法使いを、そっと持つと撫でる。魔法使いはすっかり気を許したのか鼻をヒクヒクとさせながら、手に擦り寄った。
ギチ。
「ぎっ!?」
ギチギチと鼠の身体にミハルの長い爪が食い込む。ミハルは、鼠をゴクリと一口で飲み干した。
床がぴしりと割れ、黒い影が風になる。激しい風が身を襲う。ミハルは目を瞑り耳を塞ぎ耐えた。
なんの音も聞こえなくなり、風が静まった。目を開けると、金で詰められた床や壁、装飾として飾られた宝石がキラキラと輝いた。
「……計画通りだ。あとは……ご主人様を待つのみ」
──これで恩返しができる。
ミハルは少し潤んだ目を擦った。
ナツキは王の会話に相槌を打ちながら、熱い視線……王女に目を向けた。このやり取りを何度もしているのだが、何故かあっちからは見る癖にこちらが目を合わせようとすると、顔を赤らめてそっぽを向いてしまうのだ。
それは勿論、王女がナツキに見惚れて目を合わせるのが恥ずかしいだけなのだが、ナツキは今まで粉挽屋の末っ子という立ち位置、顔もいつも汚していたからか誰にもそういった感情を向けられる事はなかった。
故に、王女の態度が冷たく思えてしまうのだった。
(俺は、なにか失礼なことをしてしまっただろうか)
そうこう考えているうちに、今はいなくなった魔法使いの領地へ入った。
「おお、大きな麦畑じゃのう。これそこの者。ここの麦畑は誰の者じゃ?」
「カラバ侯爵様のものです」
「ほう! 素晴らしい麦畑をお持ちですな」
「え? いやこれ俺のじゃな……」
「さて、進もうか」
──話を聞かない王様だな……。
否定しようとしたが途中で遮られてしまった。
次は森。次は──としているうちに、城へ着いた。
「ようこそ、おいで下さいました。ご主人様を助けて頂いたお礼に珍しい果物などがあるので、どうぞ」
馬車がついた所は、魔法使いが居なくなり、本来の姿を取り戻した大きな城だった。
金色に輝く床や、赤緑紫と光る宝石に、ぽっかりと口を開けたまま王は案内された。
王女は、輝く城とこと城の持ち主であるナツキをそわそわと見ていた。
(なんて素敵な人なのかしら……王子様みたい)
奥の部屋へ着くと、長い楕円型のテーブルに椅子が並べてあった。テーブルの上には、シャンデリアに当てられキラキラと輝く果物や洋菓子。
暫く、王と王女、ナツキは果物や洋菓子を食べ、酒を飲んだ。
酔っ払いかけている王が王女の背中を叩きながら、ナツキに言った。
「なあ、カラバ侯爵よ」
「……なんでしょうか」
「貴方ほど素晴らしい人はいない。儂の娘と結婚してくれないか」
「え?」
ナツキは自分の耳を疑った。それはそうだ。粉挽屋の末っ子としてパッとしない人生を送ってきたナツキには、とても考えられないことだ。
ミハルをチラリと見ると、にっこりと笑っていた。
ミハルの目的はこれだった。
王に気に入られれば、必然的に娘である王女と結婚する。結婚したら、もう苦労はしなくていい。王の仕事は自分がやればいい。
ナツキだけは、富と名誉と楽という幸せを手に入れることが出来る。
これが一番ナツキが幸せになれる道──。
ミハルは、痛む胸を、穴が空いた心を隠すように、にっこりと笑っていた。
(二人だけの生活は終わりですね。幸せになって下さい。これが僕の恩返し)
「……」
「どうじゃ、ナツキ。儂の娘と結婚してくれないか」
(何やってるんだよご主人様……! 早く『はい』って言ってよ……!)
ナツキは口を固く閉じているだけだ。
うんともすんとも言わないナツキに、苛立ちと焦りを覚えるミハル。
そして、ナツキはゆっくりと目を開け、深く息を吐き出した。
目には、決意。
「王様、とてもありがたくおもいます。
でも、結婚は断らせて頂きます」
「は!?」
「うむ、何故か聞かせて貰おうか?」
王が真剣な眼差しでナツキを見る。
「俺は何も王女様が嫌いだとかそんな理由で言ったわけではありません。ただ、俺には一人にしてはいけない人がいるのです」
「……一人にしてはいけない人、とな?」
「ええ」
ミハルは胸がざわついた。一人にしてはいけない人……そんな大切な人がナツキにいたのか。大切な恋人か。しかし、ナツキが自らその可能性を否定する。
「恋人ではないのですが。家族です」
「家族?」
「ええ、いるじゃないですか。そこでアホ面してる猫ですよ」
「え?」
ミハルはキョロキョロと見回した。何処にも猫なんていない。
「お前だよ、ミハル」
「え!?」
「ミハルか?」
「はい。そもそも、俺が野うさぎに罠をかけれるようになったのも、こんな生活が出来るようになったのもミハルのおかげなんです。いつも俺の為にって頑張ってくれて」
「なら、娘と結婚して、ミハルにも楽な生活に、」
「いいえ。ミハルはきっと俺が結婚しても、自分から俺の仕事を全部やったりだとか無茶して、楽な生活にはならないでしょう」
ギクリと肩を揺らした。なぜ自分の考えている事が気づかれたのか。
「ミハルは、ヘラヘラしてたり、上から目線だったり、腹立つやつですけど、無茶してたりとか、心配させないようにだとか、変な気遣いするやつです。ほっとけないんです。
大切な人だから」
「!!」
「ミハルにも、俺にも、お互いしかもう家族がいないんです。ミハルを置いて行きたくないのです」
「……娘よ、初恋敗れたり、じゃな。今日はありがとう。これからも友好的な関係であることを誓おう」
王は涙を溜めている王女の背中をさすりながら、悟ったように優しく笑いながら帰って行った。
部屋の中は酷く静かになった。
「……な、んで」
「なんだ?」
「なんで! 断ったんですか!」
「言っただろう。お前を置いていけない」
「馬鹿なんですか?! 僕はちゃんとついていきますし、別に一人でも寂しいとか無いですし、大丈夫だったのに!」
「嘘つけ」
「嘘じゃ無い!」
「なら笑ってみろ!!」
ドンッとナツキがテーブルを叩いた。ミハルは、こんなに怒るナツキを見た事がなかった。
嫌われてしまう、と怖くなってしまった。
怯えと震えを気付かれないように、声を低くして言った。
「笑ってみろってなんですか。ふざけてるんですか」
「お前こそふざけるな。大丈夫なら、今笑えるだろう」
「わ、笑ってますよこれでも」
「……やっぱり嘘じゃないか。笑えてない」
ナツキがスタスタとこちらに歩いてくる。後ずさりしても、後ろには壁。ナツキがミハルの横に手をついた。「ぴっ」と小さな悲鳴をあげる。逃げ場は無く、ナツキはもう一つの手でミハルの顎を持ち、無理矢理目を合わせる。
ナツキの手に、水が流れる。涙だった。
「ほら、泣いてる」
「泣いてなんか……無いですよ」
「なんで、お前は笑えないんだ。なんで泣いてるんだ」
「関係無いでしょ」
「…………関係あるに決まっている。お前は俺の大切なやつだから」
「にゃっ!!?」
ナツキは初めてふっと笑うと、ミハルを抱きしめた。背中を赤子にするようにポンポンと叩く。ミハルには酷く落ち着くものだった。人の温もりが心地よい。
「あ、ご主人様……?」
「泣いていい」
「!」
「笑っていい。愚痴を吐いてもいい。感情を押し殺すな。これは主人の命令だ」
「……ずるいですよ。離れられなくなっちゃうじゃ無いですか」
「離れるなんて無いだろ。家族だろ」
「……」
ミハルは心のこびりついた黒い何かが、ボロボロと剥がれるのを感じた。我慢していた感情が溢れる。
ミハルは声を上げる代わりに、ナツキの胸を叩きながら泣いた。涙がナツキの服に吸い込まれるたびに、ミハルは心が軽くなった気がした。
──やっぱり優しいな。ご主人様は。
ナツキは今でも抱きしめてくれている。温もりが愛おしい。
ナツキ。大切な人。僕の為に、幸せになれる道を捨てて。
こんな僕に優しくしてくれた。必要としてくれた。
どうしてそんな人を、「愛せない」などと言えようか。
言えるはずがない。
彼は僕の──。
もう、我慢は出来なかった。
「ご主人様……」
「なんだ?」
「ご主人様、僕を愛してくれますか?」
「なんだ急に、気色悪いな。勿論愛してる」
「そうですか。よし」
「? よし?」
「ご主人様、ずっと前からお慕いしてます。結婚しましょう」
「ああ。……あ?」
「結婚指輪買わないとですね」
「は?」
「幸せになりましょうね。子供何人欲しいですか。三人ですかねやっぱり。あ、でも僕もご主人様も男だから産めないですね」
「おい待て。今なんの話だ?」
「ご主人様と僕って〜、ほら、結婚するじゃないですか」
「結婚? まてどんな流れでその話になる?」
「え? 愛してくれるんですよね?」
「あのな、家族的な意味であって別にそういう意味じゃ、」
「結婚したら家族です」
「そうだが家族のジャンルが違うだろう……! お前が言ってるのは……」
「ご主人様。聞いて下さい」
「……な、なんだ」
「ご主人様はずっと僕を見捨てないでいてくれました。僕、愛してるんです。もう我慢の限界です。もう抑えられないんですよ。……ね、僕だけを見ていて下さいね?」
そう言ったミハルは、口を三日月の形に浮かべ、目にはうっとりとしたような、熱いような、狂気的な妖しい光が灯っていた。
──これはいけないやつだ。
ナツキは直感的に悟った。逃げないと。
「 お、お前、俺達は男だし、そもそも人間と猫って……」
「ご主人様、結婚しましょう」
「話を聞け馬鹿!」
長靴を履いた黒猫は、どうやら主人に惚れてしまったらしい。
