第2章 『君のために走った』
時計の針が真下を指した。始業のベルが室内に鳴り響き、授業の始まりを告げた。
「じゃあ、最初は丸つけから初めてね~」 鈴木先生の陽気な声の中、宿題の丸つけを始めた。 「ここは遅刻かー」 鈴木先生が右端の空いた席を見つめながら言った。 「ここって誰が来るんですか?」 「誰が来ると思うー?」 俺の質問に対し、鈴木先生は質問で返してきた。 「わからないから聞いているんですよ!」 今の俺は珍しくよく喋った。自分でも驚くくらいに。 何かを声に出していたかった。何かを言葉にしたかった。 そうしなければいけなかった。そうしなければ、俺は何も出来なくなってしまう。隣に座る、少女のことで頭がいっぱいになってしまう。 「はぁ…」 「どうしたの、ため息ついて?」 「えっ…」 聞こえてしまっていたのか。少女はその透き通った瞳で俺のことを見つめながら聞いてきた。話しかけられたらなんて返せばいいのかがわからない。 「あの…えっと…」 「ふふ、緊張してるのー?」 少女はふにゃっと笑いながら俺の心の中を見透かした。 「え、えと…。な、なんで…俺が、緊張…」 「可愛い!」 やばい。頭が熱くなってきた。顔が熱を帯び始めた。 「えっと…」 何かを言わなきゃ。そう思いながら声に出そうとするが、うまく形にならない。 「ねえ、見てこれっ!」 少女はそのまま話を勝手に進め、俺にある物を見せた。それは、筆箱だった。 「これって、アリエル…?」 この筆箱のキャラクターには見覚えがあった。ディズニーの『リトル・マーメイド』に登場する『アリエル』だった。下半身が魚、上半身が人間の体をした人魚姫のキャラクターだ。 「アリエル、好きなの?」 「うん、すごーく大好きっ!」 少女はまたしてもその透き通った瞳を輝かせ、笑顔で言った。 「こらこら、二人とも仲良くイチャイチャするのもいいけど早く丸つけ終わらせてよ!」 鈴木先生が俺と少女をからかうように言った。 「な…、イチャついてなんか…」 「仲良しだもんねっ!」 俺が否定の言葉を返そうとしたら、少女も俺をからかうように表情を明るくしながら言ってきた。
「えっ…」 おそらく今の俺は面白いくらいに顔が赤くなっていることだろう。 「顔がすごい真っ赤になってるよ?」 少女は俺の反応に満足気な表情を見せていた。 「そ、それは…」 「はいはいちゃんと授業戻って」 鈴木先生に笑いながら注意を促され、俺と少女は再び宿題の丸つけの作業に戻った。 十分近くは二人共静かに集中していた。
しかし、その沈黙を破ったのは俺だった。 「まだ右端の人来ないんだね」 俺は未だに空いている右の席を見ずに言った。右を向いてしまうと、少女のことをずっと見ていたくなってしまう。 「ほんとだね~」 少女は席を見つめながら言った。 「あ、そうだっ!」 「うん?」 少女は表情を輝かせながら話し始めた。 「この前また、カラオケ行ったんだけど…」 それは、鈴木先生と俺に話しているようだった。 この塾は基本的にバイトの大学生が授業をする。生徒によっては先生に対して敬語を使わず話す人も少なくない。 「その遊んだ日にさ、またアリエルの文房具買っちゃった!」 「本当にアリエル好きなんだね。若干アリエル中毒者みたいになってるよ」 アリエル中毒者って…。先生の答え方が面白かったのか、少女は笑い始めていた。 「え、今のそんなに面白かったの?」 少女は抑えられなくなったかのように笑っていた。その様子に鈴木先生は自分の発言のどこに笑っているのか疑問符を浮かべていた。 俺も何かを話したかった。少女と話したかった。だからだ。ただひたすらに考えた。どうすれば少女が笑ってくれるのか。ただ、俺も少女に笑って欲しかった。 「アリエルってさ、半魚人だよね?」 下手くそだ。俺にとっては冗談を言って笑わせるつもりだった。下手すぎる。 元々話すことにすらなれていない俺が、冗談なんてうまく言えるはずがなかったんだ。 これじゃあただ、少女の好きなことを侮辱したに過ぎない。 「あ、えっと…。今のは、その…。ご、ごめ…」 謝罪を口にしようとした時だった。声が聞こえた。鈴のように軽く心に響く声だ。 「ふふ…、ふふ…」 それは、笑い声だった。笑いをこらえているような、そんな声だった。 「えっ…?」
「何言ってる。やめてよ、あんまり変なこと言われると頭から離れなくなるでしょ!」 少女は笑っていた。涙目になりながら笑っていた。 どうして俺の発言にここまで笑ってくれるのかがわからなかった。それでも、少女の笑顔はとても美しくて…。 重たいガラスの扉が開かれ、外の冷たい冷気が室内に流れ込んできた。 「誰か来たね」 少女は誰が来たのか興味深そうに入口の方に視線を向けた。 「あ、慎吾(しんご)っ…」 鈴木先生がたった今現れた入口に立つ少年を見て言った。 「慎吾君、やっと来た!」 「ごめんごめん、遅刻しちゃった」 慎吾は反省の色が見えない表情で小泉先生に出迎えられながら言った。 「えっと、慎吾君は三番ブースの鈴木先生のところで授業です!」 小泉先生はなれているのかそんな慎吾の反省の色が見えない口だけの言葉を軽く受け流し授業を受けるブースを指示した。 「慎吾はここでーす!」 鈴木先生が入口に立った慎吾を呼んだ。 「今日はなんで遅刻したんだ?」 空いていた右の席には、たった今遅刻してきた慎吾が座っていた。 「寝坊しちゃった」 「塾前に普通寝るか?」 鈴木先生と慎吾はお互い友達のように話していた。 大宮慎吾(おおみやしんご)は俺と同じF中学校の二年生だ。クラスは違うが、学校でも遅刻常習犯として有名だった。 隣に座る少女は、突然の慎吾の登場に少し驚いているのか声を出さず問題を解くのに集中していた。 慎吾が来たことで、俺は少女との時間が終わってしまった気がして少し寂しい気持ちになる。 「そういえばさ、今日遊んでた時ヤンキーに絡まれたんだよね!」 慎吾は遅れてきたにも関わらず、突然雑談を始めた。慎吾は表情をより一層輝かせながら言った。 「なんか、お金取られるかと思っちゃった」 「早く丸つけ初めてよ。それに、そんな笑顔で話す内容じゃないでしょ」 慎吾はまた笑いながら丸つけの作業を始めた。 その様子を見ていた俺と少女は、二人の会話におかしくなり、お互いに笑い始めた。 「ねえねえ、ヤンキーなんて今の時代にいるの?」 いつの間にか黙り込んでいた少女も声を出し始め、鈴木先生と慎吾の会話に混ざり始めていた。
時計の針は、二十一時五十分を指していた。室内には終業のベルが鳴り響き、八十分間の授業の終わりを告げた。
それは、隣に座るこの少女との別れの時間をも伝えた。
「やっと終わったー!」
遅刻をしてきた慎吾はやっと授業から解放されたとばかりに喜びを声に出していた。
俺は、急いだ。急いで塾を出ようとした。勉強道具をリュックに押し込み、走って席を離れた。
「はぁ…はぁ…」
俺は何をしているのだろうか。月明かりが照らす夜空の下、俺は急いで塾を飛び出し駐輪所に来ていた。
「息を、はぁ…。切らしている、はぁ…。暇なんて…」
呼吸が乱れ、口からは白い息が漏れだしていた。
早く離れなければいけなかった。早く離れたかった。
自転車に鍵を差し込み、今すぐ走らせようとした。
「あっー」
背後から声が聞こえた。それは、とても透き通っていて聞くものに安心を与える音だった。
「さっきの人ー!」
気づけば隣には、あの少女がいた。無邪気に笑う、雪のようなあの少女がいた。
雄斗は離れたかった。少女から離れたかったんだ。これ以上関わると、雄斗は少女のことが忘れられなくなってしまう。
自分はおかしな病気にかかってしまったんだ。それは、きっと『恋』だ。
自分が人を好きになるなんてありえない。自分を否定したかった。
それでも、感情は正直だ。嘘偽りがない。騙すことも否定することも出来ない。
だからだ。だから雄斗はこの少女から離れたかった。一緒にいると想いが苦しみへと変わっていく。それが、嫌だったのだ。
「一緒に帰ろっか」
声が聞こえた。とても聞いていて安心できる声だ。
俺は少し前にひとりの少女と出会った。少女を見た。少女の声を聞いた。
それだけだった。たったそれだけのことで、俺は目の前の少女に恋をしたのだ。
「ねえ、聞いてるー?」
「あ、うん」
少女は俺に笑顔を見せながらもう一度言った。
「一緒に、帰ろ?」
少女に誘われて嫌なはずがない。嬉しかった。幸せだった。大好きだった。
「うん、いいよ」
俺は少女の誘いを承諾した。雪降る夜空の下で。
「ねえねえ、どんな部活してるのー?」 「部活はあれだよ。帰宅部!」 俺は少女と二人、隣合わせで自転車を走らせていた。 「そうなんだー。私も帰宅部みたいなもんだよ。部活つまんなくて行ってないし」 「そっか~」 月明かりが照らす少女の横顔はとても美しかった。雪のように溶けてなくなってしまいそうな儚さがあった。 「そういえばそれ!」 「それ?」 俺は少女の自転車を指して言った。 「あっ!」 少女も俺の言いたかったことに気づいたらしい。 「「同じだねっ!」」 少女と俺の声は綺麗に重なった。それがおかしくなり、お互いに笑った。 少女の自転車は、雄斗が塾に到着した時に見つけた桃色の自転車だった。 「あれ、でも俺より後に来たよね?」 俺より後に来たはずの少女の自転車がなぜあったのか疑問に思った。 「ああ、私塾に着いた時おなかすいてたから歩いてコンビニ行ってた!」 「ああ、そうゆうことか」 とにかく幸せだった。少女と二人、雪降る夜道で会話するのが。幸せな時間だった。この時間が、永遠に続けばもう何もいらない。それくらいに幸せだった。 「家はどこにあるの?」 「家か…」 少女は俺の質問にどこか困った様子だった。聞かない方がよかったのだろうか。 「その、私さ。家が引っ越したばかりでわからないんだよね…」 「えっ…!」 少女は困ったようにはにかみながら言った。 「じゃあ今はどこに向かってるの?」 少女はずっと俺に着いてきていた。このままだと少女は俺の家に来ることになる。 「あ、大丈夫。今日は友達の家に泊まらせてもらうの!」 「あ、そうなんだ」 少女の補足に安心した。こんな夜遅くに、少女をひとり迷わせるわけにはいかない。 「よかったよ。ずっと迷って着いてきているのかと思って…」 「ひどいなぁ。一緒に帰ろうって言ったじゃん!」 頬を膨らませながら少女は反論してきた。こうやって無邪気に怒る顔も可愛いな。 「家はそっち?」 「うん、こっちだよ!」 少女は走らせていた自転車を止め、聞いてきた。 「そっか、それなら今日はここでお別れだね」
お別れ。少女の言ったその言葉は俺の心によく響いた。聞きたくなかった。もう、これで少女との時間が終わるんだ。 「友達の家はそっちなの?」 「うん」 最後の悪あがきで少しでも会話を続けようとしたが、すぐに尽きてしまう。 「そっか。それなら仕方ないね」 「私ね、本当に今日はすごーく楽しかったんだよ。だから、君も私と同じ気持ちだったら嬉しいなって…」 楽しくないわけないじゃないか。俺にとって、この少女と一緒に帰れたことは、ひとつの宝物のような時間だった。 「俺だって、すごーく楽しかったよ!」 「本当…?」 少女は不安を表情に出しながら聞き返してきた。 「うん、本当だよ。嘘つくはずないじゃん!」 本当は少女よりも俺の方が不安だった。少女は俺と帰れて楽しいのか。俺と話せて楽しいのか。 「そっか。本当に今日はありがとう」 「うん!」 そして、最後は笑顔で言った。
「バイバイ、また会ったら一緒に帰ろうね!」
俺も少女に負けないくらいの笑顔で言った。
「もちろん、喜んで!」 少女と別れたあとは全力で自転車のペダルに力を注いだ。 俺の病気はかなり重たいものだったらしい。だからだ。この心に絡みつく何かを振りほどこうと必死になって自転車を走らせた。 雪と冷気が肌に触れることを気にすることもなく、ただ走った。全力で自転車を走らせた。 月明かりが夜道を走るひとりの少年を照らしていた。 俺は君が好きだ。大好きだ。世界で一番愛している。 少年は、想いを胸に秘め、ただ彼女のために。彼女のためだけに。 君のために走った。
時計の針が真下を指した。始業のベルが室内に鳴り響き、授業の始まりを告げた。
「じゃあ、最初は丸つけから初めてね~」 鈴木先生の陽気な声の中、宿題の丸つけを始めた。 「ここは遅刻かー」 鈴木先生が右端の空いた席を見つめながら言った。 「ここって誰が来るんですか?」 「誰が来ると思うー?」 俺の質問に対し、鈴木先生は質問で返してきた。 「わからないから聞いているんですよ!」 今の俺は珍しくよく喋った。自分でも驚くくらいに。 何かを声に出していたかった。何かを言葉にしたかった。 そうしなければいけなかった。そうしなければ、俺は何も出来なくなってしまう。隣に座る、少女のことで頭がいっぱいになってしまう。 「はぁ…」 「どうしたの、ため息ついて?」 「えっ…」 聞こえてしまっていたのか。少女はその透き通った瞳で俺のことを見つめながら聞いてきた。話しかけられたらなんて返せばいいのかがわからない。 「あの…えっと…」 「ふふ、緊張してるのー?」 少女はふにゃっと笑いながら俺の心の中を見透かした。 「え、えと…。な、なんで…俺が、緊張…」 「可愛い!」 やばい。頭が熱くなってきた。顔が熱を帯び始めた。 「えっと…」 何かを言わなきゃ。そう思いながら声に出そうとするが、うまく形にならない。 「ねえ、見てこれっ!」 少女はそのまま話を勝手に進め、俺にある物を見せた。それは、筆箱だった。 「これって、アリエル…?」 この筆箱のキャラクターには見覚えがあった。ディズニーの『リトル・マーメイド』に登場する『アリエル』だった。下半身が魚、上半身が人間の体をした人魚姫のキャラクターだ。 「アリエル、好きなの?」 「うん、すごーく大好きっ!」 少女はまたしてもその透き通った瞳を輝かせ、笑顔で言った。 「こらこら、二人とも仲良くイチャイチャするのもいいけど早く丸つけ終わらせてよ!」 鈴木先生が俺と少女をからかうように言った。 「な…、イチャついてなんか…」 「仲良しだもんねっ!」 俺が否定の言葉を返そうとしたら、少女も俺をからかうように表情を明るくしながら言ってきた。
「えっ…」 おそらく今の俺は面白いくらいに顔が赤くなっていることだろう。 「顔がすごい真っ赤になってるよ?」 少女は俺の反応に満足気な表情を見せていた。 「そ、それは…」 「はいはいちゃんと授業戻って」 鈴木先生に笑いながら注意を促され、俺と少女は再び宿題の丸つけの作業に戻った。 十分近くは二人共静かに集中していた。
しかし、その沈黙を破ったのは俺だった。 「まだ右端の人来ないんだね」 俺は未だに空いている右の席を見ずに言った。右を向いてしまうと、少女のことをずっと見ていたくなってしまう。 「ほんとだね~」 少女は席を見つめながら言った。 「あ、そうだっ!」 「うん?」 少女は表情を輝かせながら話し始めた。 「この前また、カラオケ行ったんだけど…」 それは、鈴木先生と俺に話しているようだった。 この塾は基本的にバイトの大学生が授業をする。生徒によっては先生に対して敬語を使わず話す人も少なくない。 「その遊んだ日にさ、またアリエルの文房具買っちゃった!」 「本当にアリエル好きなんだね。若干アリエル中毒者みたいになってるよ」 アリエル中毒者って…。先生の答え方が面白かったのか、少女は笑い始めていた。 「え、今のそんなに面白かったの?」 少女は抑えられなくなったかのように笑っていた。その様子に鈴木先生は自分の発言のどこに笑っているのか疑問符を浮かべていた。 俺も何かを話したかった。少女と話したかった。だからだ。ただひたすらに考えた。どうすれば少女が笑ってくれるのか。ただ、俺も少女に笑って欲しかった。 「アリエルってさ、半魚人だよね?」 下手くそだ。俺にとっては冗談を言って笑わせるつもりだった。下手すぎる。 元々話すことにすらなれていない俺が、冗談なんてうまく言えるはずがなかったんだ。 これじゃあただ、少女の好きなことを侮辱したに過ぎない。 「あ、えっと…。今のは、その…。ご、ごめ…」 謝罪を口にしようとした時だった。声が聞こえた。鈴のように軽く心に響く声だ。 「ふふ…、ふふ…」 それは、笑い声だった。笑いをこらえているような、そんな声だった。 「えっ…?」
「何言ってる。やめてよ、あんまり変なこと言われると頭から離れなくなるでしょ!」 少女は笑っていた。涙目になりながら笑っていた。 どうして俺の発言にここまで笑ってくれるのかがわからなかった。それでも、少女の笑顔はとても美しくて…。 重たいガラスの扉が開かれ、外の冷たい冷気が室内に流れ込んできた。 「誰か来たね」 少女は誰が来たのか興味深そうに入口の方に視線を向けた。 「あ、慎吾(しんご)っ…」 鈴木先生がたった今現れた入口に立つ少年を見て言った。 「慎吾君、やっと来た!」 「ごめんごめん、遅刻しちゃった」 慎吾は反省の色が見えない表情で小泉先生に出迎えられながら言った。 「えっと、慎吾君は三番ブースの鈴木先生のところで授業です!」 小泉先生はなれているのかそんな慎吾の反省の色が見えない口だけの言葉を軽く受け流し授業を受けるブースを指示した。 「慎吾はここでーす!」 鈴木先生が入口に立った慎吾を呼んだ。 「今日はなんで遅刻したんだ?」 空いていた右の席には、たった今遅刻してきた慎吾が座っていた。 「寝坊しちゃった」 「塾前に普通寝るか?」 鈴木先生と慎吾はお互い友達のように話していた。 大宮慎吾(おおみやしんご)は俺と同じF中学校の二年生だ。クラスは違うが、学校でも遅刻常習犯として有名だった。 隣に座る少女は、突然の慎吾の登場に少し驚いているのか声を出さず問題を解くのに集中していた。 慎吾が来たことで、俺は少女との時間が終わってしまった気がして少し寂しい気持ちになる。 「そういえばさ、今日遊んでた時ヤンキーに絡まれたんだよね!」 慎吾は遅れてきたにも関わらず、突然雑談を始めた。慎吾は表情をより一層輝かせながら言った。 「なんか、お金取られるかと思っちゃった」 「早く丸つけ初めてよ。それに、そんな笑顔で話す内容じゃないでしょ」 慎吾はまた笑いながら丸つけの作業を始めた。 その様子を見ていた俺と少女は、二人の会話におかしくなり、お互いに笑い始めた。 「ねえねえ、ヤンキーなんて今の時代にいるの?」 いつの間にか黙り込んでいた少女も声を出し始め、鈴木先生と慎吾の会話に混ざり始めていた。
時計の針は、二十一時五十分を指していた。室内には終業のベルが鳴り響き、八十分間の授業の終わりを告げた。
それは、隣に座るこの少女との別れの時間をも伝えた。
「やっと終わったー!」
遅刻をしてきた慎吾はやっと授業から解放されたとばかりに喜びを声に出していた。
俺は、急いだ。急いで塾を出ようとした。勉強道具をリュックに押し込み、走って席を離れた。
「はぁ…はぁ…」
俺は何をしているのだろうか。月明かりが照らす夜空の下、俺は急いで塾を飛び出し駐輪所に来ていた。
「息を、はぁ…。切らしている、はぁ…。暇なんて…」
呼吸が乱れ、口からは白い息が漏れだしていた。
早く離れなければいけなかった。早く離れたかった。
自転車に鍵を差し込み、今すぐ走らせようとした。
「あっー」
背後から声が聞こえた。それは、とても透き通っていて聞くものに安心を与える音だった。
「さっきの人ー!」
気づけば隣には、あの少女がいた。無邪気に笑う、雪のようなあの少女がいた。
雄斗は離れたかった。少女から離れたかったんだ。これ以上関わると、雄斗は少女のことが忘れられなくなってしまう。
自分はおかしな病気にかかってしまったんだ。それは、きっと『恋』だ。
自分が人を好きになるなんてありえない。自分を否定したかった。
それでも、感情は正直だ。嘘偽りがない。騙すことも否定することも出来ない。
だからだ。だから雄斗はこの少女から離れたかった。一緒にいると想いが苦しみへと変わっていく。それが、嫌だったのだ。
「一緒に帰ろっか」
声が聞こえた。とても聞いていて安心できる声だ。
俺は少し前にひとりの少女と出会った。少女を見た。少女の声を聞いた。
それだけだった。たったそれだけのことで、俺は目の前の少女に恋をしたのだ。
「ねえ、聞いてるー?」
「あ、うん」
少女は俺に笑顔を見せながらもう一度言った。
「一緒に、帰ろ?」
少女に誘われて嫌なはずがない。嬉しかった。幸せだった。大好きだった。
「うん、いいよ」
俺は少女の誘いを承諾した。雪降る夜空の下で。
「ねえねえ、どんな部活してるのー?」 「部活はあれだよ。帰宅部!」 俺は少女と二人、隣合わせで自転車を走らせていた。 「そうなんだー。私も帰宅部みたいなもんだよ。部活つまんなくて行ってないし」 「そっか~」 月明かりが照らす少女の横顔はとても美しかった。雪のように溶けてなくなってしまいそうな儚さがあった。 「そういえばそれ!」 「それ?」 俺は少女の自転車を指して言った。 「あっ!」 少女も俺の言いたかったことに気づいたらしい。 「「同じだねっ!」」 少女と俺の声は綺麗に重なった。それがおかしくなり、お互いに笑った。 少女の自転車は、雄斗が塾に到着した時に見つけた桃色の自転車だった。 「あれ、でも俺より後に来たよね?」 俺より後に来たはずの少女の自転車がなぜあったのか疑問に思った。 「ああ、私塾に着いた時おなかすいてたから歩いてコンビニ行ってた!」 「ああ、そうゆうことか」 とにかく幸せだった。少女と二人、雪降る夜道で会話するのが。幸せな時間だった。この時間が、永遠に続けばもう何もいらない。それくらいに幸せだった。 「家はどこにあるの?」 「家か…」 少女は俺の質問にどこか困った様子だった。聞かない方がよかったのだろうか。 「その、私さ。家が引っ越したばかりでわからないんだよね…」 「えっ…!」 少女は困ったようにはにかみながら言った。 「じゃあ今はどこに向かってるの?」 少女はずっと俺に着いてきていた。このままだと少女は俺の家に来ることになる。 「あ、大丈夫。今日は友達の家に泊まらせてもらうの!」 「あ、そうなんだ」 少女の補足に安心した。こんな夜遅くに、少女をひとり迷わせるわけにはいかない。 「よかったよ。ずっと迷って着いてきているのかと思って…」 「ひどいなぁ。一緒に帰ろうって言ったじゃん!」 頬を膨らませながら少女は反論してきた。こうやって無邪気に怒る顔も可愛いな。 「家はそっち?」 「うん、こっちだよ!」 少女は走らせていた自転車を止め、聞いてきた。 「そっか、それなら今日はここでお別れだね」
お別れ。少女の言ったその言葉は俺の心によく響いた。聞きたくなかった。もう、これで少女との時間が終わるんだ。 「友達の家はそっちなの?」 「うん」 最後の悪あがきで少しでも会話を続けようとしたが、すぐに尽きてしまう。 「そっか。それなら仕方ないね」 「私ね、本当に今日はすごーく楽しかったんだよ。だから、君も私と同じ気持ちだったら嬉しいなって…」 楽しくないわけないじゃないか。俺にとって、この少女と一緒に帰れたことは、ひとつの宝物のような時間だった。 「俺だって、すごーく楽しかったよ!」 「本当…?」 少女は不安を表情に出しながら聞き返してきた。 「うん、本当だよ。嘘つくはずないじゃん!」 本当は少女よりも俺の方が不安だった。少女は俺と帰れて楽しいのか。俺と話せて楽しいのか。 「そっか。本当に今日はありがとう」 「うん!」 そして、最後は笑顔で言った。
「バイバイ、また会ったら一緒に帰ろうね!」
俺も少女に負けないくらいの笑顔で言った。
「もちろん、喜んで!」 少女と別れたあとは全力で自転車のペダルに力を注いだ。 俺の病気はかなり重たいものだったらしい。だからだ。この心に絡みつく何かを振りほどこうと必死になって自転車を走らせた。 雪と冷気が肌に触れることを気にすることもなく、ただ走った。全力で自転車を走らせた。 月明かりが夜道を走るひとりの少年を照らしていた。 俺は君が好きだ。大好きだ。世界で一番愛している。 少年は、想いを胸に秘め、ただ彼女のために。彼女のためだけに。 君のために走った。
