第3章 『君に届ける想い』
カーテンの隙間から太陽の光が室内に射し込み、雄斗の顔を照らしていた。
ピピッ、ピピッと機械的な電子音が雄斗の鼓膜を叩きつけた。
「うーん…。んー…。んん…」
まだ意識が完全に覚醒していない状態で手のひらの感覚を頼りに目覚まし時計を探した。
鳴り響く目覚まし時計を叩きつけ、数秒後上体を起き上がらせた。
「ふわぁぁ~。もう朝か…」
目に涙を浮かべながら大きなあくびをした。
「相変わらず寒いな…」
制服に着替え外へ出ると、いつも通り辺りは冷気で満ちていた。
「雪は、降ってないな」
地面には昨夜降り続いていたと思われる雪が積もっていた。
時間をかけて固まった雪を踏みしめながら雄斗は今日も学校へと出発した。
「おはよう雄斗っ!」
三階の教室へ辿り着き、扉を開くと一番に拓磨の挨拶が飛んできた。
「あ、うん。おはよう、拓磨」
俺は拓磨には劣るが、少しでも活気のある元気な挨拶を返そうと心がけながら言った。
「えっ…。雄斗がちゃんと挨拶返した…」
拓磨は一体何に驚いているんだ。俺が挨拶を返したらそんなにおかしいのだろうか。
「失礼なやつだな」
俺は首に巻いていたマフラーを外しながら言った。
「だって、いつも返してくれないじゃん!」
そんな拓磨の声が教室に響いた。
今は五校時目。給食も食べ終わり、一番眠くなってくる時間帯だ。
「じゃあ、さっさと決めようぜ!」
五校時目の授業は学活だった。この時間帯の授業が国語や数学だったら本当に地獄だった。
「お前もさっさと調べろっ!」
「あ、うん…」
この時間の主な内容は修学旅行の自主研修先を決めていた。他の学校よりも少し早く、四月に修学旅行がある。まだ二年生も終わっていないのに、既にそんな話が始まっていた。
「なんで俺、こんな班にしたんだろ…」
研修先を決める話し合いは、少し前に決めた自主研修の班ごとで行われていた。
それは、昨年の十二月のことだった。
雄斗たち二学年は、十二月の寒い中、体育館に集められていた。
今日は、体育館で修学旅行の自主研修の班を決めるらしい。体育館を動き回り、五人くらいの人数で集まり、班を作る。
人付き合いが苦手な雄斗にとってこれ以上の悪夢はなかった。
「はぁ…。どうしようか。本当にまずいことになった」
体育館の中で動き回る二年生たちは、少しずつ班をつくり、人数が減っていった。
少しずつだが確実に班ができていく中、俺はひとり取り残されていた。
「雄斗!」
俺はどこの班にも入れずひとりでただ立ち尽くしていた。そんな時、背後から俺を呼ぶ声がした。
「拓磨っ!」
振り返ってみると、そこには拓磨がいた。
「もしよかったら自主研修一緒にまわらないか?」
拓磨は今の俺にとって、唯一の救いと言えた。
「うん、別にいいけ…」
言いかけた言葉が止まった。拓磨の周りには既に数人誰かがいた。おそらく自主研修の班だろう。
ここでも俺の人間嫌いが拓磨の班を拒絶した。
「ごめん。やっぱ他の班にする…」
俺は短く言い捨て拓磨の誘いを断った。
「本当に困った。どこも入れる場所が…」
拓磨の班を断った後も、何人かの人に誘われた。それもすべて断ってしまった。もう本当に入れる場所がなかった。
そんな時だった。
「お前、入る班ないの?」
ひとりの少年が話しかけてきた。
「誰ですか…?」
俺は知らない男子に話しかけられ、思わず敬語になってしまった。
「だから、入る班がないのかって聞いてんだよ」
俺は入る班がどこにもなく、彼の班に入れてもらうことになった。
それが今のこの状況だ。俺に声をかけてきたのは菅野健(すがのけん)。健は声を荒らげて言った。
「ったくお前らさっさとどこ行くか決めろよ」
この班は、一番俺の苦手とするタイプの班だった。健は口は悪いが、まだましな方だった。
「お前いる意味ある?」
俺に向かって放たれた言葉だ。彼は佐々木弘樹(ささきひろき)。この班の中で一番口が悪いと思う。
「ご、ごめん…」
「謝らなくていいからさっさとどこ行くか考えてくんない?」
俺の謝罪は彼には届かず睨みつけられた。おそらく突然この班に入ってきた俺のことが気に入らないのだろう。
「まあ、一旦落ち着こうか」
睨みつける弘樹を止めたのは阿部智也(あべともや)だ。彼はこの班で一番まともな人間だと思う。
そして最後に、智也が弘樹を止める様子を笑いながら見ているのがこの班の班長天野拓人(あまのたくと)だ。
「お前、本当班長らしいこと何もしないよな」
健が呆れながら拓人の目を見て言った。
「えー、そうかな?」
拓人は気にした様子もなく言った。
「ってか本当にどうするんだよ。今日中に研修先決めて提出しなきゃいけないのに…」
時間の少なさに焦りを感じ始めた弘樹は声を荒らげながら言った。
これが俺の自主研修の班だ。この五人で自主研修に行くなんて考えただけで体調を崩しそうだ。
智也を抜いて、班の全員が自分中心で意見がまとまらなかった。
「少し我慢して拓磨の班に入ればよかったかも…」
俺は弘樹たちに聞こえないよう小さな声で呟いた。今更そんな後悔したところでもう遅い。
本当に最悪だ。
外は薄暗かった。日は沈み、空には金色の月が姿を見せていた。
「よし行くかっ…」
コートにマフラー、手袋をつけたいつもの完全防寒装備だ。
今日は一月二十三日の水曜日だ。今日は塾がない日だった。しかし、雄斗は塾に行こうと決めていた。K学院では、授業がない日でも自習をすることが出来た。
俺は今日、その自習に行こうと思う。もちろん、目的は勉強ではない。
「もう一度会って、話がしたい…」
白い息を吐きながら、昨夜の美しい少女のことを思い浮かべていた。彼女ともう一度話がしたかった。
今まで塾で彼女と会ったことは一度もなかった。あんなに可愛い子なんだ。会っていたら気づくはずだ。
それでもいなかったことを考えると俺とは違う曜日に授業があるんだと思う。
「じゃあ、雪の少女に会いに行きますかっ!」
今日会うことが出来るかなんてまだわからなかった。それでも会えることを期待し、その期待が、今の雄斗の原動力の源だった。
凍った地面を自転車で走り抜け、ただひたすらに少女のことを思った。昨夜見た少女の横顔を思い出した。何より、あの言葉が忘れられなかった。
『バイバイ、また会ったら一緒に帰ろうね!』
だから俺はひたすらに自転車を走らせた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
塾に着いた頃には呼吸が乱れ、肩で息をする状態だった。
会えるかもわからない相手に早く会いたかった。そんな期待だけでここまでやってきた。
「はぁ…はぁ…。よかっ…た…。あっ…た…」
呼吸が乱れているせいで、うまく言葉が出せなかった。
雄斗のその瞳には、桃色の自転車だけが写っていた。
「え、雄斗君って今日授業あったっけ?」
K学院に足を踏み入れると、小泉先生の高い声で出迎えられた。
「えっと、その…」
俺は辺りを見回し、目的の少女を探した。
少女はすぐに見つかった。少女は入口に一番近い一番ブースの机に座っていた。
少女は、俺の存在に気づくと笑顔で手を振った。
俺は嬉しかった。それでも恥ずかしくて振替してあげることができなかった。
「えっと、雄斗君?」
「あ、そうでした!」
なんと言えばいいだろうか。素直に自習に来たと言うのも少し恥ずかしい。
「間違って来ちゃいました!」
悩んだ末に、俺の一番苦手な冗談で誤魔化すことにした。
「えー、間違ってきちゃったの。雄斗君って結構天然さんなんだね!」
小泉先生が笑いながら俺のことを見てくる。話を聞いていたのか、少女も笑いながら俺のことを見ていた。
「可愛い…」
少女が小さな声で呟いたそんな響きは雄斗には届いていなかった。
俺は、間違って来たことを口実に塾で自習をしていくことにした。
「はぁ…どうしよう。絶対に集中出来ないよな…」
この塾には自習用の机があった。そこにはひとつ問題があった。
振り向くと、後ろには少女がいた。少女は俺と目が合うとにっこりと微笑んだ。
そう、自習用の机は一番ブースの前に設置されていた。後ろを振り向くと一番ブースの少女が見えるのだ。
「集中出来ない…」
後ろから少女に見られているかも、と考えると心臓が張り裂けそうなくらいに高鳴った。
「自習頑張ってねっ!」
「うわぁっ!」
突然後ろから声がかけられ驚いた。声をかけたのは小泉先生だ。
「ふふっ…」
笑い声が聞こえた。後ろからだ。笑っていたのは少女だった。俺の驚きぶりが面白かったのだろう。
少女に笑われるのは嬉しいが、どことなく恥ずかしさもある。
「さあ、とりあえず自習頑張るかっ!」
小さな声でひとり決意を口にした。その瞬間室内に始業のベルが鳴り響き、授業時間の始まりを告げた。
俺は机にかじりつくように集中していた。後ろから少女の視線を感じたりもするが、気にすることなく机に向き合っていた。
「雄斗君集中していて偉いね~」
後ろを通る度に小泉先生が声をかけていく。それも気にすることなく集中していた。
「よし、この話は…」
たまに独り言が口から漏れたりもしたが、本人は気づかずに集中した。
雄斗が必死になって書き込んでいるノートにはたくさんの文字が刻まれていた。その文字は、勉強の成果ではなかった。
「この話もしたいな!」
独り言を呟きながら書いていたのは、話の話題だった。まだ一緒に帰れるかもわからない少女のことを考えていると、たくさん話したいことが浮かんできた。
話したいことひとつひとつを大切にノートに書き込んでいた。たくさんのことを知りたかった。たくさんのことを知って欲しかった。
雄斗のこの集中力は、少女を想う原動力のひとつだった。
時計の針は、二十一時五十分を指していた。室内にはこの塾で何度も聞く終了のベルが鳴り響いていた。
「うんっ?」
俺はノートと筆箱をリュックに押し込み、少女の方を振り向いた。すると、少女がこっちに来てとばかりに手招きしていた。
内心で可愛いと思いながら少女の方へと歩み寄った。
「やあ、昨夜ぶり!」
「ふふっ。昨夜ぶりだねっ!」
少女は笑顔で返してくれた。
「ねえ、今日も一緒に帰ろっ?」
少女が透き通った瞳で俺のことを見つめながら言った。
「もちろん!」
少女は白い息を吐きながら自転車に鍵を差し込んでいた。
「ふふっ。やっぱり外は寒いねっ!」
「ほんとだね~」
俺と少女は笑い合いながら目を合わせた。
「あのさ、」
「うん?」
俺はこの少女のことをもっとたくさん知りたかった。もっとたくさん、俺のことを知って欲しかった。
だから知りたかった。今一番知りたいことを聞こうと思った。この瞬間に望んだものはきっと本当に欲しいものなんだと思う。だから、聞いた。
今この瞬間に本当に欲しいものは…
「君の名前を教えて欲しい…」
「私の、名前?」
そうだ。俺はこの瞬間、少女の名前が知りたかったんだ。
俺の質問に少女は、悪戯っ子のように笑いながら言った。
「君が先に教えてくれなきゃ私は教えないよ~」
その表情は、昨日見たものと同じだ。何度見たって同じだ。月明かりに照らされた少女はとても美しかった。
「俺は…。俺の名前は雄斗だ。朝霧雄斗だ」
「雄斗…か…。すごーくいい名前だと思うよ!」
少女は俺の名前を聞いて満足そうな顔だった。
「君の、名前は?」
少年は名前が知りたかった。目の前に立つ、雪のように透き通った少女の名前を。
「私は…。私の名前は…」
その時、空からふわふわとした雪が降ってきた。雪は、月明かりに照らされ、幻想的に輝いていた。
そんな輝きに包まれながら、少女は答えた。
「私の名前は、佑姫。未来佑姫(みらいゆき)。それが私の名前だよ!」
少女は雪のようにふわふわとした笑顔で名乗った。
「佑姫…」
「なーに?」
俺に名前を呼ばれ、佑姫は優しく答えた。
「すごーく、いい名前だね!」
「私たちさ、こんなに仲良くなってたのにお互い名前も知らなかったんだね~」
佑姫は笑いながら言った。やっぱりそうだ。佑姫には笑顔が似合っている。
俺と佑姫は、二人で並んで帰っていた。隣に佑姫がいるだけで世界が全然違うものになってしまったようだ。
「佑姫」
「どうしたの?」
佑姫とのこの時間を大切にしたかった。大好きな佑姫との時間は、今の俺の何よりの宝物だ。
欲張りな俺だから、言おうと思った。欲張りな俺だから、この時間を自分と佑姫だけのものにしたかった。
「ひとつだけ、お願いごとを聞いてほしい」
俺の真剣な雰囲気を察したのか、佑姫も静まり返って言った。
「私に出来ることなら、なんでもいいよ」
佑姫にしかできないお願いごとだ。
「佑姫…」
「はい…」
欲張りな俺の、たったひとつの佑姫にしかできないお願いごと。
「俺と、付き合ってくれませんか…?」
たったひとりの君へと想いを伝えた少年は、月明かりに照らされて…。
カーテンの隙間から太陽の光が室内に射し込み、雄斗の顔を照らしていた。
ピピッ、ピピッと機械的な電子音が雄斗の鼓膜を叩きつけた。
「うーん…。んー…。んん…」
まだ意識が完全に覚醒していない状態で手のひらの感覚を頼りに目覚まし時計を探した。
鳴り響く目覚まし時計を叩きつけ、数秒後上体を起き上がらせた。
「ふわぁぁ~。もう朝か…」
目に涙を浮かべながら大きなあくびをした。
「相変わらず寒いな…」
制服に着替え外へ出ると、いつも通り辺りは冷気で満ちていた。
「雪は、降ってないな」
地面には昨夜降り続いていたと思われる雪が積もっていた。
時間をかけて固まった雪を踏みしめながら雄斗は今日も学校へと出発した。
「おはよう雄斗っ!」
三階の教室へ辿り着き、扉を開くと一番に拓磨の挨拶が飛んできた。
「あ、うん。おはよう、拓磨」
俺は拓磨には劣るが、少しでも活気のある元気な挨拶を返そうと心がけながら言った。
「えっ…。雄斗がちゃんと挨拶返した…」
拓磨は一体何に驚いているんだ。俺が挨拶を返したらそんなにおかしいのだろうか。
「失礼なやつだな」
俺は首に巻いていたマフラーを外しながら言った。
「だって、いつも返してくれないじゃん!」
そんな拓磨の声が教室に響いた。
今は五校時目。給食も食べ終わり、一番眠くなってくる時間帯だ。
「じゃあ、さっさと決めようぜ!」
五校時目の授業は学活だった。この時間帯の授業が国語や数学だったら本当に地獄だった。
「お前もさっさと調べろっ!」
「あ、うん…」
この時間の主な内容は修学旅行の自主研修先を決めていた。他の学校よりも少し早く、四月に修学旅行がある。まだ二年生も終わっていないのに、既にそんな話が始まっていた。
「なんで俺、こんな班にしたんだろ…」
研修先を決める話し合いは、少し前に決めた自主研修の班ごとで行われていた。
それは、昨年の十二月のことだった。
雄斗たち二学年は、十二月の寒い中、体育館に集められていた。
今日は、体育館で修学旅行の自主研修の班を決めるらしい。体育館を動き回り、五人くらいの人数で集まり、班を作る。
人付き合いが苦手な雄斗にとってこれ以上の悪夢はなかった。
「はぁ…。どうしようか。本当にまずいことになった」
体育館の中で動き回る二年生たちは、少しずつ班をつくり、人数が減っていった。
少しずつだが確実に班ができていく中、俺はひとり取り残されていた。
「雄斗!」
俺はどこの班にも入れずひとりでただ立ち尽くしていた。そんな時、背後から俺を呼ぶ声がした。
「拓磨っ!」
振り返ってみると、そこには拓磨がいた。
「もしよかったら自主研修一緒にまわらないか?」
拓磨は今の俺にとって、唯一の救いと言えた。
「うん、別にいいけ…」
言いかけた言葉が止まった。拓磨の周りには既に数人誰かがいた。おそらく自主研修の班だろう。
ここでも俺の人間嫌いが拓磨の班を拒絶した。
「ごめん。やっぱ他の班にする…」
俺は短く言い捨て拓磨の誘いを断った。
「本当に困った。どこも入れる場所が…」
拓磨の班を断った後も、何人かの人に誘われた。それもすべて断ってしまった。もう本当に入れる場所がなかった。
そんな時だった。
「お前、入る班ないの?」
ひとりの少年が話しかけてきた。
「誰ですか…?」
俺は知らない男子に話しかけられ、思わず敬語になってしまった。
「だから、入る班がないのかって聞いてんだよ」
俺は入る班がどこにもなく、彼の班に入れてもらうことになった。
それが今のこの状況だ。俺に声をかけてきたのは菅野健(すがのけん)。健は声を荒らげて言った。
「ったくお前らさっさとどこ行くか決めろよ」
この班は、一番俺の苦手とするタイプの班だった。健は口は悪いが、まだましな方だった。
「お前いる意味ある?」
俺に向かって放たれた言葉だ。彼は佐々木弘樹(ささきひろき)。この班の中で一番口が悪いと思う。
「ご、ごめん…」
「謝らなくていいからさっさとどこ行くか考えてくんない?」
俺の謝罪は彼には届かず睨みつけられた。おそらく突然この班に入ってきた俺のことが気に入らないのだろう。
「まあ、一旦落ち着こうか」
睨みつける弘樹を止めたのは阿部智也(あべともや)だ。彼はこの班で一番まともな人間だと思う。
そして最後に、智也が弘樹を止める様子を笑いながら見ているのがこの班の班長天野拓人(あまのたくと)だ。
「お前、本当班長らしいこと何もしないよな」
健が呆れながら拓人の目を見て言った。
「えー、そうかな?」
拓人は気にした様子もなく言った。
「ってか本当にどうするんだよ。今日中に研修先決めて提出しなきゃいけないのに…」
時間の少なさに焦りを感じ始めた弘樹は声を荒らげながら言った。
これが俺の自主研修の班だ。この五人で自主研修に行くなんて考えただけで体調を崩しそうだ。
智也を抜いて、班の全員が自分中心で意見がまとまらなかった。
「少し我慢して拓磨の班に入ればよかったかも…」
俺は弘樹たちに聞こえないよう小さな声で呟いた。今更そんな後悔したところでもう遅い。
本当に最悪だ。
外は薄暗かった。日は沈み、空には金色の月が姿を見せていた。
「よし行くかっ…」
コートにマフラー、手袋をつけたいつもの完全防寒装備だ。
今日は一月二十三日の水曜日だ。今日は塾がない日だった。しかし、雄斗は塾に行こうと決めていた。K学院では、授業がない日でも自習をすることが出来た。
俺は今日、その自習に行こうと思う。もちろん、目的は勉強ではない。
「もう一度会って、話がしたい…」
白い息を吐きながら、昨夜の美しい少女のことを思い浮かべていた。彼女ともう一度話がしたかった。
今まで塾で彼女と会ったことは一度もなかった。あんなに可愛い子なんだ。会っていたら気づくはずだ。
それでもいなかったことを考えると俺とは違う曜日に授業があるんだと思う。
「じゃあ、雪の少女に会いに行きますかっ!」
今日会うことが出来るかなんてまだわからなかった。それでも会えることを期待し、その期待が、今の雄斗の原動力の源だった。
凍った地面を自転車で走り抜け、ただひたすらに少女のことを思った。昨夜見た少女の横顔を思い出した。何より、あの言葉が忘れられなかった。
『バイバイ、また会ったら一緒に帰ろうね!』
だから俺はひたすらに自転車を走らせた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
塾に着いた頃には呼吸が乱れ、肩で息をする状態だった。
会えるかもわからない相手に早く会いたかった。そんな期待だけでここまでやってきた。
「はぁ…はぁ…。よかっ…た…。あっ…た…」
呼吸が乱れているせいで、うまく言葉が出せなかった。
雄斗のその瞳には、桃色の自転車だけが写っていた。
「え、雄斗君って今日授業あったっけ?」
K学院に足を踏み入れると、小泉先生の高い声で出迎えられた。
「えっと、その…」
俺は辺りを見回し、目的の少女を探した。
少女はすぐに見つかった。少女は入口に一番近い一番ブースの机に座っていた。
少女は、俺の存在に気づくと笑顔で手を振った。
俺は嬉しかった。それでも恥ずかしくて振替してあげることができなかった。
「えっと、雄斗君?」
「あ、そうでした!」
なんと言えばいいだろうか。素直に自習に来たと言うのも少し恥ずかしい。
「間違って来ちゃいました!」
悩んだ末に、俺の一番苦手な冗談で誤魔化すことにした。
「えー、間違ってきちゃったの。雄斗君って結構天然さんなんだね!」
小泉先生が笑いながら俺のことを見てくる。話を聞いていたのか、少女も笑いながら俺のことを見ていた。
「可愛い…」
少女が小さな声で呟いたそんな響きは雄斗には届いていなかった。
俺は、間違って来たことを口実に塾で自習をしていくことにした。
「はぁ…どうしよう。絶対に集中出来ないよな…」
この塾には自習用の机があった。そこにはひとつ問題があった。
振り向くと、後ろには少女がいた。少女は俺と目が合うとにっこりと微笑んだ。
そう、自習用の机は一番ブースの前に設置されていた。後ろを振り向くと一番ブースの少女が見えるのだ。
「集中出来ない…」
後ろから少女に見られているかも、と考えると心臓が張り裂けそうなくらいに高鳴った。
「自習頑張ってねっ!」
「うわぁっ!」
突然後ろから声がかけられ驚いた。声をかけたのは小泉先生だ。
「ふふっ…」
笑い声が聞こえた。後ろからだ。笑っていたのは少女だった。俺の驚きぶりが面白かったのだろう。
少女に笑われるのは嬉しいが、どことなく恥ずかしさもある。
「さあ、とりあえず自習頑張るかっ!」
小さな声でひとり決意を口にした。その瞬間室内に始業のベルが鳴り響き、授業時間の始まりを告げた。
俺は机にかじりつくように集中していた。後ろから少女の視線を感じたりもするが、気にすることなく机に向き合っていた。
「雄斗君集中していて偉いね~」
後ろを通る度に小泉先生が声をかけていく。それも気にすることなく集中していた。
「よし、この話は…」
たまに独り言が口から漏れたりもしたが、本人は気づかずに集中した。
雄斗が必死になって書き込んでいるノートにはたくさんの文字が刻まれていた。その文字は、勉強の成果ではなかった。
「この話もしたいな!」
独り言を呟きながら書いていたのは、話の話題だった。まだ一緒に帰れるかもわからない少女のことを考えていると、たくさん話したいことが浮かんできた。
話したいことひとつひとつを大切にノートに書き込んでいた。たくさんのことを知りたかった。たくさんのことを知って欲しかった。
雄斗のこの集中力は、少女を想う原動力のひとつだった。
時計の針は、二十一時五十分を指していた。室内にはこの塾で何度も聞く終了のベルが鳴り響いていた。
「うんっ?」
俺はノートと筆箱をリュックに押し込み、少女の方を振り向いた。すると、少女がこっちに来てとばかりに手招きしていた。
内心で可愛いと思いながら少女の方へと歩み寄った。
「やあ、昨夜ぶり!」
「ふふっ。昨夜ぶりだねっ!」
少女は笑顔で返してくれた。
「ねえ、今日も一緒に帰ろっ?」
少女が透き通った瞳で俺のことを見つめながら言った。
「もちろん!」
少女は白い息を吐きながら自転車に鍵を差し込んでいた。
「ふふっ。やっぱり外は寒いねっ!」
「ほんとだね~」
俺と少女は笑い合いながら目を合わせた。
「あのさ、」
「うん?」
俺はこの少女のことをもっとたくさん知りたかった。もっとたくさん、俺のことを知って欲しかった。
だから知りたかった。今一番知りたいことを聞こうと思った。この瞬間に望んだものはきっと本当に欲しいものなんだと思う。だから、聞いた。
今この瞬間に本当に欲しいものは…
「君の名前を教えて欲しい…」
「私の、名前?」
そうだ。俺はこの瞬間、少女の名前が知りたかったんだ。
俺の質問に少女は、悪戯っ子のように笑いながら言った。
「君が先に教えてくれなきゃ私は教えないよ~」
その表情は、昨日見たものと同じだ。何度見たって同じだ。月明かりに照らされた少女はとても美しかった。
「俺は…。俺の名前は雄斗だ。朝霧雄斗だ」
「雄斗…か…。すごーくいい名前だと思うよ!」
少女は俺の名前を聞いて満足そうな顔だった。
「君の、名前は?」
少年は名前が知りたかった。目の前に立つ、雪のように透き通った少女の名前を。
「私は…。私の名前は…」
その時、空からふわふわとした雪が降ってきた。雪は、月明かりに照らされ、幻想的に輝いていた。
そんな輝きに包まれながら、少女は答えた。
「私の名前は、佑姫。未来佑姫(みらいゆき)。それが私の名前だよ!」
少女は雪のようにふわふわとした笑顔で名乗った。
「佑姫…」
「なーに?」
俺に名前を呼ばれ、佑姫は優しく答えた。
「すごーく、いい名前だね!」
「私たちさ、こんなに仲良くなってたのにお互い名前も知らなかったんだね~」
佑姫は笑いながら言った。やっぱりそうだ。佑姫には笑顔が似合っている。
俺と佑姫は、二人で並んで帰っていた。隣に佑姫がいるだけで世界が全然違うものになってしまったようだ。
「佑姫」
「どうしたの?」
佑姫とのこの時間を大切にしたかった。大好きな佑姫との時間は、今の俺の何よりの宝物だ。
欲張りな俺だから、言おうと思った。欲張りな俺だから、この時間を自分と佑姫だけのものにしたかった。
「ひとつだけ、お願いごとを聞いてほしい」
俺の真剣な雰囲気を察したのか、佑姫も静まり返って言った。
「私に出来ることなら、なんでもいいよ」
佑姫にしかできないお願いごとだ。
「佑姫…」
「はい…」
欲張りな俺の、たったひとつの佑姫にしかできないお願いごと。
「俺と、付き合ってくれませんか…?」
たったひとりの君へと想いを伝えた少年は、月明かりに照らされて…。
