第5章 『狂い始めた歯車』
雄斗は歩いていた。永遠に晴れることのない闇の中を。 「ここは、どこだ…」 辺りを見回してもあるのはただの闇。闇以外は何も見えない。 「誰かぁ…?」 雄斗は怖くなった。人を求めて叫んだ。その叫びは誰にも届かず、闇の世界に響き渡っていた。 自分がどこにいるのかわからない。 足元は闇で覆われ、何も見えない。自分が歩いているのかどうかすらもわからない。 自分がわからない。自分の存在がわからない。自分の体がわからない。自分が誰か、わからない。 「あれ、俺は何をしているんだ…?」 自分が誰なのか思い出せない。自分がどうしてここにいるのかわからない。 「誰かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」 わからないことだらけだ。気が狂いそうだ。人を求めて大声で叫んだ。誰にも届かず響くだけだ。 「ふふっ…。ふは…。あは…。あはは…」 誰かが笑っていた。 「あはははははははははははははははは」 笑っていたのは、俺だ。完全に壊れたんだ。壊れて笑っていた。壊れたおもちゃはただ笑っていた。 「………」 突如、あるかもわからない右手に熱を感じた。人の熱だ。誰かが、俺の右手を握っているんだ。 「だ、誰だぁっ…!」 誰かに右手を握られていることを理解した途端、得体の知れない恐怖が襲ってきた。 「誰だ誰だ誰だ誰だ誰だぁぁぁぁぁぁぁ!」 そして、その声は聞こえた。 『愛している…。だから、この右手は絶対に離さないよ…』 それは、聞くものに安らぎを与える声だった。鈴の音のような美しい声だった。 俺の右手を握った声の主を見たい。 「……………?」 「どこにいるんだ?」と言いたかった。声が出ない。口がわからない。喉がわからない。自分の声がわからない。 体がわかるなら、今すぐ声の主を抱きしめたかった。目がわかるなら、今すぐ声の主を見たかった。 『大丈夫…。私は、ずっとそばにいるよ…』 声の主は、俺を慰めるように言った。最後にこんな言葉を残した。 『大好きだよ、…斗』
「はぁ…はぁ…。夢…かぁ…」
意識が現実へと覚醒した雄斗の体は、汗で濡れていた。
「久しぶり、だな…」
前にも何度かこの夢を見たことがあった。自分は闇に包まれた世界をひとりで歩き、誰かの声がする。そんな夢だ。
「朝からあんな夢を見るなんて、せっかくの今日が台無しだ…」
せっかくの今日。今日は一月二十六日土曜日。佑姫との約束の日だった。
「とりあえず、シャワーでも浴びるか…」
こんな汗臭い体では佑姫に会うことができない。
夢のことを思い出しながら、お風呂場へと向かった。
どうして今日に限ってあんな悪夢を見てしまったのか。最近は佑姫のことを考えると心が落ち着き、深い眠りにつくことができていた。
「もう、見たくないな…」
あの夢は見ない方がいい。いつか、本当にあの夢のようなことが起こるかもしれない。そんなことはありえないとわかっていた。
それでも、不安が尽きることはなかった。
「うわっ、寒っ…!」
シャワー浴びて、部屋に戻ると、いつも以上の冷気が漂っていた。どうして朝起きた時には気がつかなかったのだろう…。
「どうして俺の部屋はこんなにも寒いかな…」
独り言を呟きながら少しでも部屋に太陽の光を取り入れようとカーテンを開けた。
「うわっ、なんだよこれ…」
カーテンを開けると、外は一面白一色で埋め尽くされていた。
「これ、全部雪か…」
寝ている間に降っていたと思われる雪は、文字通り山のように積もっていた。
「せっかく遊ぶ約束してたのにこんなに雪降ってるんじゃ…」
困り果てていた。こんな雪の中、彼女が来るか不安だった。
「いや、絶対に来る…」
俺は数秒前の考えを切り捨てた。彼女は絶対に来る。絶対に来てくれるはずだ。
佑姫は俺の存在する意味だ。そんな佑姫のことを不安に思ってしまった自分が恥ずかしい。
「絶対に約束を守ろう…」
外へ出ると、近所の住民たちが雪かきをしていた。
「すごいなぁ…」
いつもの完全防寒装備で外へ出て、実物を見ると思わず感嘆の声が漏れてしまう。
雪は予想以上に積もっていた。足首が余裕で埋まるくらいには積もっていた。
「どうしようかな…」
俺は悩んでいた。それは、自転車のことだ。
「普通に考えて、この雪の中を自転車はきついよな…」
それでも、悩む理由があった。
雄斗は、カラオケがどこにあるのか知らなかった。もし自転車を使わなければ行けない距離だったとしたら、また自転車を取りに家に戻って来ることになる。
「はぁ、どうするか…」
自転車で行くか歩きで行くか、それだけのことに五分近くの時間を費やした。
その結果、
「よしっ、自転車で行こうっ!」
自転車で行くことを決意した。
明らかに道は自転車に適していなかった。雪に埋もれながらタイヤを無理やりに動かし、自転車を走らせた。
「お前とも結構付き合い長いけどこんな道走るのは初めてだな…」
自転車に対してペットのように話しかけた。
白い息を軽く乱れさせながらひたすらに自転車を走らせた。
「重たいっ…」
走る度に雪がタイヤに絡みつき、重さが増していく。
コンビニの前なんかも通った。そこでも同じように雪かきをしていた。どこを見渡しても雪かきをしている人たちが目に入った。
「大変そうだな…」
人事のように雪かきをする人々を見つめながら言った。
あたりの木々にも雪が積もり、今にも木が折れそうな重量感を感じさせた。
雪と冷気の世界。そんな中、少年は約束を果たすために自転車を走らせ続けた。
自転車を走らせ続けて約十分、遠くに小さな一台の自動販売機が見えた。
「約束の時間は…」
スマホの画面を開き、時間を確認した。約束の時間は九時三十分だ。
「今は、八時五十八分…。早く来すぎたな…」
三十分近くも早く来てしまった。こんな寒い中三十分も待つのは流石に限界があった。
どこか寒さをしのげる場所がないかと辺りを見渡した。
どこを見渡しても雪かきをする人々しか見えなかった。
「どこか、近くに建物でもあれば…」
そこで気づいた。
「この自動販売機…」
この自動販売機の裏には建物があった。橙色をした建物だった。
「行ってみるか…」
自転車を自動販売機の前に止め、裏にある橙色の建物に行ってみることにした。
手袋越しでもかじかむ手をポケットに入れ、温めながら、裏にある建物へと向かった。
「ここって…」
建物の前に来ると、そこはお店だった。大きな白い文字で『百円ショップ』と書かれていた。
「こんなところに百均なんてあったんだ~」
小さなお店でかなり老朽化が進んでいるように見えた。所々橙色の塗装も剥がれ落ち、夜に見たら怖そうだ。
「こんにちはぁ~」
小さな声で呟きながら店内に入ってみた。
「おお、思ってたより綺麗…」
外の冷気で冷えた扉を開けて中に入ると、外の外見とは異なり店内は綺麗に整っていた。
「しかも、案外広い…」
外から見るよりも中からの方が広く感じられた。しばらくはここで時間を潰させてもらおう。
スマホを開き、時間を確認すると九時二十五分を示していた。
「そろそろ行かないとな…」
三十分近く、暖かい店内で時間を時間を潰せた。今から佑姫に会うことを考えると変な緊張感が湧いてきた。
「絶対に今日は楽しもうっ!」
冷たい取っ手を掴み、入口の扉を開いた。
外へ出ると相変わらず辺りは雪で覆われ、冷気が充満していた。
「うう、寒いな…」
暖かい店内三十分近くもいたんだ。外の気温に体が馴染めていない。
俺はそんな中、裏にある自動販売機の元へと歩き始めた。
スマホは九時二十八分を示していた。自動販売機の前に止めていった自転車に座りながら佑姫を待った。
三十分近くも外に放置していただけあって、自転車のサドルはひどく冷えていた。
そんな時、遠くにひとり、こちらに向かって歩いてくる人物がいた。
黒いコートに身を包んだ俺より少し身長の低い少女だ。
その少女は少しずつ近づいてくる。気づけば、横断歩道を間に挟み、俺の彼女は目の前に立っていた。
少女は俺と視線が届く位置に来ると、軽く微笑みながら手を振った。
「佑姫っ!」
彼女の名前を呼びながら手を振り返した。横断歩道の信号機が青になると、彼女は約束の自動販売機の前まで歩いてきた。
「おはよう、佑姫」
来てくれたことが嬉しかった。会えたことが嬉しかった。たった一日会えなかっただけなのに、すごく久しぶりに会った気分だ。
「うん、おはよう…」
佑姫は挨拶を返してくれた。だが、いつもと少し様子が違った。
今日の佑姫には、いつもと違い圧倒的に足りないものがあった。それは、明るさだ。
いつも明るく元気で、誰にでも優しい少女。俺の知っている佑姫はそんな少女だ。
「何かあった?」
元気の無い佑姫に話しかけた。
「別に、少し疲れただけ…」
明らかに変だ。いつもと様子が違う。
「歩きで来たんだねっ」
佑姫の近くには、色違いの桃色の自転車が見当たらなかった。
「こんなに雪降ってたら普通は乗ってこないでしょ?」
佑姫は冷たく言った。
「俺の自転車、邪魔だよね…」
「置きに行けば?」
またしても冷たかった。今日の佑姫は、雪のように冷たかった。
「本当にどうしたの?」
俺はどうしても信じられなかった。佑姫がこんなに冷たいはずがない。きっと何か理由があるはずだ。そう思い質問した。
「さっきも言ったでしょ、疲れてるの…」
佑姫は二度同じことを言わせるなと、言っているかのようだった。
「そっか…」
俺は何も言わずにただ黙った。
俺と佑姫は、積もった雪に足場を奪われながらも歩いていた。
「家ってこっちなのー?」
「うん、もう少しで着くよっ!」
佑姫は元気がなかった。だから、俺が明るく振舞おうと思った。少しでも、佑姫に楽しんでほしくて。
「私もう疲れたんだけど…」
そう言いながらも俺の家に行くことを提案したのは佑姫だ。
『自転車、邪魔だから家に置きに行こう…』
氷のように冷えきった声で言われ、何も反応することができなかった。
佑姫の機嫌の悪さを嫌なくらいに感じつつ、歩いていると、住宅街に来ていた。
「そろそろ着くー?」
「もう、すぐそこだよっ!」
目の前には白い家が立っていた。俺の家だ。
「案外大きな家なんだね…」
佑姫は俺の家を見つめながら呟いた。
「まだ新築だからね」
この家は、去年の四月に建った。父親がずっと家を欲しがっていた。
家が建つと、今度は車を欲しがった。
父親は子供のようになんでも欲しがる人だった。
俺は自転車を庭にある小さな小屋にしまった。
その時も、佑姫は退屈そうに苛立ちを隠しているかのような表情をしていた。
「待たせてごめんねっ…」
心底機嫌が悪い佑姫に対して謝罪を告げた。
「別に…」
冷たい一言が返ってくるだけだ。
俺たちふたりは、カラオケに向かって歩き始めていた。
「カラオケってさ、行ったことないから結構楽しみなんだよね~」
俺は自分からは何も話してこない佑姫にたくさん話しかけた。佑姫のいつもと違う様子に不安を隠しながら話しかけた。
「そんなに面白いところでもないよ…」
佑姫の冷たい一言が返ってくるだけだ。本当に今日の佑姫はどうしてしまったのだろうか。
「あのさ、もしかして俺、何かした?」
思わず聞いてしまった。この機嫌の悪さの原因が自分にあるのかも知れない。そんな不安が次々とこみ上げてくる。
「別に…。疲れてるだけだって…」
またしても佑姫の答えは同じだった。
俺は楽しみにしていたんだ。今日佑姫に会えることが。その望みは叶い、現在進行形で佑姫と一緒にいる。
しかしなんだろうか、この得体の知れない不安は。どこから湧いてくるものなのかわからない。
「佑姫はさ、俺のこと嫌い?」
不安が消えずに口にした質問だ。
佑姫は睨んでいた。俺を睨みつけるような視線を向けていた。氷のようにどこまでも冷たい視線を。
そして言った。
「何度言わせれば、気が済むの…。私に好きって言ってもらわなきゃ気がすまないのっ?」
初めて見る表情だった。俺の知っている佑姫はいつも笑っていた。その笑顔に、俺は救われたんだ。
それなのに、今目の前にいる佑姫の表情は、憎悪に満ちて今にも怒りで壊れてしまう。そんな表情をしていた。
「佑姫…。何が、あったの…?」
それでも俺は質問を続けた。信じていた。絶対に佑姫には理由があるはずだ。心の底から信じきっていた。
「いい加減さ、しつこいよ雄斗…」
そこで今日初めて俺の名前が呼ばれた。
「えっ…?」
佑姫は今日一番に表情を冷たく固めて言った。
「私は、疲れてるの…。カラオケに着くまで話しかけないで…」
わけがわからなかった。佑姫の表情が見えない。佑姫の考えていることがわからない。
この狂い始めたふたりの歯車の正体がわからない…。
雄斗は歩いていた。永遠に晴れることのない闇の中を。 「ここは、どこだ…」 辺りを見回してもあるのはただの闇。闇以外は何も見えない。 「誰かぁ…?」 雄斗は怖くなった。人を求めて叫んだ。その叫びは誰にも届かず、闇の世界に響き渡っていた。 自分がどこにいるのかわからない。 足元は闇で覆われ、何も見えない。自分が歩いているのかどうかすらもわからない。 自分がわからない。自分の存在がわからない。自分の体がわからない。自分が誰か、わからない。 「あれ、俺は何をしているんだ…?」 自分が誰なのか思い出せない。自分がどうしてここにいるのかわからない。 「誰かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」 わからないことだらけだ。気が狂いそうだ。人を求めて大声で叫んだ。誰にも届かず響くだけだ。 「ふふっ…。ふは…。あは…。あはは…」 誰かが笑っていた。 「あはははははははははははははははは」 笑っていたのは、俺だ。完全に壊れたんだ。壊れて笑っていた。壊れたおもちゃはただ笑っていた。 「………」 突如、あるかもわからない右手に熱を感じた。人の熱だ。誰かが、俺の右手を握っているんだ。 「だ、誰だぁっ…!」 誰かに右手を握られていることを理解した途端、得体の知れない恐怖が襲ってきた。 「誰だ誰だ誰だ誰だ誰だぁぁぁぁぁぁぁ!」 そして、その声は聞こえた。 『愛している…。だから、この右手は絶対に離さないよ…』 それは、聞くものに安らぎを与える声だった。鈴の音のような美しい声だった。 俺の右手を握った声の主を見たい。 「……………?」 「どこにいるんだ?」と言いたかった。声が出ない。口がわからない。喉がわからない。自分の声がわからない。 体がわかるなら、今すぐ声の主を抱きしめたかった。目がわかるなら、今すぐ声の主を見たかった。 『大丈夫…。私は、ずっとそばにいるよ…』 声の主は、俺を慰めるように言った。最後にこんな言葉を残した。 『大好きだよ、…斗』
「はぁ…はぁ…。夢…かぁ…」
意識が現実へと覚醒した雄斗の体は、汗で濡れていた。
「久しぶり、だな…」
前にも何度かこの夢を見たことがあった。自分は闇に包まれた世界をひとりで歩き、誰かの声がする。そんな夢だ。
「朝からあんな夢を見るなんて、せっかくの今日が台無しだ…」
せっかくの今日。今日は一月二十六日土曜日。佑姫との約束の日だった。
「とりあえず、シャワーでも浴びるか…」
こんな汗臭い体では佑姫に会うことができない。
夢のことを思い出しながら、お風呂場へと向かった。
どうして今日に限ってあんな悪夢を見てしまったのか。最近は佑姫のことを考えると心が落ち着き、深い眠りにつくことができていた。
「もう、見たくないな…」
あの夢は見ない方がいい。いつか、本当にあの夢のようなことが起こるかもしれない。そんなことはありえないとわかっていた。
それでも、不安が尽きることはなかった。
「うわっ、寒っ…!」
シャワー浴びて、部屋に戻ると、いつも以上の冷気が漂っていた。どうして朝起きた時には気がつかなかったのだろう…。
「どうして俺の部屋はこんなにも寒いかな…」
独り言を呟きながら少しでも部屋に太陽の光を取り入れようとカーテンを開けた。
「うわっ、なんだよこれ…」
カーテンを開けると、外は一面白一色で埋め尽くされていた。
「これ、全部雪か…」
寝ている間に降っていたと思われる雪は、文字通り山のように積もっていた。
「せっかく遊ぶ約束してたのにこんなに雪降ってるんじゃ…」
困り果てていた。こんな雪の中、彼女が来るか不安だった。
「いや、絶対に来る…」
俺は数秒前の考えを切り捨てた。彼女は絶対に来る。絶対に来てくれるはずだ。
佑姫は俺の存在する意味だ。そんな佑姫のことを不安に思ってしまった自分が恥ずかしい。
「絶対に約束を守ろう…」
外へ出ると、近所の住民たちが雪かきをしていた。
「すごいなぁ…」
いつもの完全防寒装備で外へ出て、実物を見ると思わず感嘆の声が漏れてしまう。
雪は予想以上に積もっていた。足首が余裕で埋まるくらいには積もっていた。
「どうしようかな…」
俺は悩んでいた。それは、自転車のことだ。
「普通に考えて、この雪の中を自転車はきついよな…」
それでも、悩む理由があった。
雄斗は、カラオケがどこにあるのか知らなかった。もし自転車を使わなければ行けない距離だったとしたら、また自転車を取りに家に戻って来ることになる。
「はぁ、どうするか…」
自転車で行くか歩きで行くか、それだけのことに五分近くの時間を費やした。
その結果、
「よしっ、自転車で行こうっ!」
自転車で行くことを決意した。
明らかに道は自転車に適していなかった。雪に埋もれながらタイヤを無理やりに動かし、自転車を走らせた。
「お前とも結構付き合い長いけどこんな道走るのは初めてだな…」
自転車に対してペットのように話しかけた。
白い息を軽く乱れさせながらひたすらに自転車を走らせた。
「重たいっ…」
走る度に雪がタイヤに絡みつき、重さが増していく。
コンビニの前なんかも通った。そこでも同じように雪かきをしていた。どこを見渡しても雪かきをしている人たちが目に入った。
「大変そうだな…」
人事のように雪かきをする人々を見つめながら言った。
あたりの木々にも雪が積もり、今にも木が折れそうな重量感を感じさせた。
雪と冷気の世界。そんな中、少年は約束を果たすために自転車を走らせ続けた。
自転車を走らせ続けて約十分、遠くに小さな一台の自動販売機が見えた。
「約束の時間は…」
スマホの画面を開き、時間を確認した。約束の時間は九時三十分だ。
「今は、八時五十八分…。早く来すぎたな…」
三十分近くも早く来てしまった。こんな寒い中三十分も待つのは流石に限界があった。
どこか寒さをしのげる場所がないかと辺りを見渡した。
どこを見渡しても雪かきをする人々しか見えなかった。
「どこか、近くに建物でもあれば…」
そこで気づいた。
「この自動販売機…」
この自動販売機の裏には建物があった。橙色をした建物だった。
「行ってみるか…」
自転車を自動販売機の前に止め、裏にある橙色の建物に行ってみることにした。
手袋越しでもかじかむ手をポケットに入れ、温めながら、裏にある建物へと向かった。
「ここって…」
建物の前に来ると、そこはお店だった。大きな白い文字で『百円ショップ』と書かれていた。
「こんなところに百均なんてあったんだ~」
小さなお店でかなり老朽化が進んでいるように見えた。所々橙色の塗装も剥がれ落ち、夜に見たら怖そうだ。
「こんにちはぁ~」
小さな声で呟きながら店内に入ってみた。
「おお、思ってたより綺麗…」
外の冷気で冷えた扉を開けて中に入ると、外の外見とは異なり店内は綺麗に整っていた。
「しかも、案外広い…」
外から見るよりも中からの方が広く感じられた。しばらくはここで時間を潰させてもらおう。
スマホを開き、時間を確認すると九時二十五分を示していた。
「そろそろ行かないとな…」
三十分近く、暖かい店内で時間を時間を潰せた。今から佑姫に会うことを考えると変な緊張感が湧いてきた。
「絶対に今日は楽しもうっ!」
冷たい取っ手を掴み、入口の扉を開いた。
外へ出ると相変わらず辺りは雪で覆われ、冷気が充満していた。
「うう、寒いな…」
暖かい店内三十分近くもいたんだ。外の気温に体が馴染めていない。
俺はそんな中、裏にある自動販売機の元へと歩き始めた。
スマホは九時二十八分を示していた。自動販売機の前に止めていった自転車に座りながら佑姫を待った。
三十分近くも外に放置していただけあって、自転車のサドルはひどく冷えていた。
そんな時、遠くにひとり、こちらに向かって歩いてくる人物がいた。
黒いコートに身を包んだ俺より少し身長の低い少女だ。
その少女は少しずつ近づいてくる。気づけば、横断歩道を間に挟み、俺の彼女は目の前に立っていた。
少女は俺と視線が届く位置に来ると、軽く微笑みながら手を振った。
「佑姫っ!」
彼女の名前を呼びながら手を振り返した。横断歩道の信号機が青になると、彼女は約束の自動販売機の前まで歩いてきた。
「おはよう、佑姫」
来てくれたことが嬉しかった。会えたことが嬉しかった。たった一日会えなかっただけなのに、すごく久しぶりに会った気分だ。
「うん、おはよう…」
佑姫は挨拶を返してくれた。だが、いつもと少し様子が違った。
今日の佑姫には、いつもと違い圧倒的に足りないものがあった。それは、明るさだ。
いつも明るく元気で、誰にでも優しい少女。俺の知っている佑姫はそんな少女だ。
「何かあった?」
元気の無い佑姫に話しかけた。
「別に、少し疲れただけ…」
明らかに変だ。いつもと様子が違う。
「歩きで来たんだねっ」
佑姫の近くには、色違いの桃色の自転車が見当たらなかった。
「こんなに雪降ってたら普通は乗ってこないでしょ?」
佑姫は冷たく言った。
「俺の自転車、邪魔だよね…」
「置きに行けば?」
またしても冷たかった。今日の佑姫は、雪のように冷たかった。
「本当にどうしたの?」
俺はどうしても信じられなかった。佑姫がこんなに冷たいはずがない。きっと何か理由があるはずだ。そう思い質問した。
「さっきも言ったでしょ、疲れてるの…」
佑姫は二度同じことを言わせるなと、言っているかのようだった。
「そっか…」
俺は何も言わずにただ黙った。
俺と佑姫は、積もった雪に足場を奪われながらも歩いていた。
「家ってこっちなのー?」
「うん、もう少しで着くよっ!」
佑姫は元気がなかった。だから、俺が明るく振舞おうと思った。少しでも、佑姫に楽しんでほしくて。
「私もう疲れたんだけど…」
そう言いながらも俺の家に行くことを提案したのは佑姫だ。
『自転車、邪魔だから家に置きに行こう…』
氷のように冷えきった声で言われ、何も反応することができなかった。
佑姫の機嫌の悪さを嫌なくらいに感じつつ、歩いていると、住宅街に来ていた。
「そろそろ着くー?」
「もう、すぐそこだよっ!」
目の前には白い家が立っていた。俺の家だ。
「案外大きな家なんだね…」
佑姫は俺の家を見つめながら呟いた。
「まだ新築だからね」
この家は、去年の四月に建った。父親がずっと家を欲しがっていた。
家が建つと、今度は車を欲しがった。
父親は子供のようになんでも欲しがる人だった。
俺は自転車を庭にある小さな小屋にしまった。
その時も、佑姫は退屈そうに苛立ちを隠しているかのような表情をしていた。
「待たせてごめんねっ…」
心底機嫌が悪い佑姫に対して謝罪を告げた。
「別に…」
冷たい一言が返ってくるだけだ。
俺たちふたりは、カラオケに向かって歩き始めていた。
「カラオケってさ、行ったことないから結構楽しみなんだよね~」
俺は自分からは何も話してこない佑姫にたくさん話しかけた。佑姫のいつもと違う様子に不安を隠しながら話しかけた。
「そんなに面白いところでもないよ…」
佑姫の冷たい一言が返ってくるだけだ。本当に今日の佑姫はどうしてしまったのだろうか。
「あのさ、もしかして俺、何かした?」
思わず聞いてしまった。この機嫌の悪さの原因が自分にあるのかも知れない。そんな不安が次々とこみ上げてくる。
「別に…。疲れてるだけだって…」
またしても佑姫の答えは同じだった。
俺は楽しみにしていたんだ。今日佑姫に会えることが。その望みは叶い、現在進行形で佑姫と一緒にいる。
しかしなんだろうか、この得体の知れない不安は。どこから湧いてくるものなのかわからない。
「佑姫はさ、俺のこと嫌い?」
不安が消えずに口にした質問だ。
佑姫は睨んでいた。俺を睨みつけるような視線を向けていた。氷のようにどこまでも冷たい視線を。
そして言った。
「何度言わせれば、気が済むの…。私に好きって言ってもらわなきゃ気がすまないのっ?」
初めて見る表情だった。俺の知っている佑姫はいつも笑っていた。その笑顔に、俺は救われたんだ。
それなのに、今目の前にいる佑姫の表情は、憎悪に満ちて今にも怒りで壊れてしまう。そんな表情をしていた。
「佑姫…。何が、あったの…?」
それでも俺は質問を続けた。信じていた。絶対に佑姫には理由があるはずだ。心の底から信じきっていた。
「いい加減さ、しつこいよ雄斗…」
そこで今日初めて俺の名前が呼ばれた。
「えっ…?」
佑姫は今日一番に表情を冷たく固めて言った。
「私は、疲れてるの…。カラオケに着くまで話しかけないで…」
わけがわからなかった。佑姫の表情が見えない。佑姫の考えていることがわからない。
この狂い始めたふたりの歯車の正体がわからない…。
