ーーーーーーーーーー
『〜〜の家には、自分で歩いて行け。』
外ではザァザァと大きな音を立てて雨が降っている。
そんな中、お父さまは私たちを傘も持たせずに追い出した。
何とか目的の家に向かおうと歩くも、雨の冷たさと親に見放された絶望感にあまり進めない。
つう…と涙が頬を伝った。
「八十…」
「もも姉……」
私と同じく潤んだ瞳で見返す八十。
それを見て、ハッとなる。
私の方がお姉ちゃんなんだ。八十を守らなきゃいけないんだ。
「…行こう。」
私はそっと、八十の手を引っ張った。
もうどれくらい歩いたのだろう。…ついに足が、動かなくなった。
体にあたる雨がひどく冷たい。
小さく震える体を、思わず両手で抱きしめた。
隣には、同じように震える体。
漆黒の髪の毛から、長い睫毛から、雫が滴り落ちる。
生気のない瞳は、どこを見ているのか。
「…へい………に…」
小さく呟く言葉は、雨で隠れて上手く聞こえない。
私たちは、これからどうなるのだろう…。
目的の場所に辿り着いたとして、そこから…。
そもそも、辿り着く場所で私たちは迎えてもらえるのだろうか。
ぐるぐると頭を回る考えに、余計に足も動かなくなる。
そんな時。
じゃり、じゃり…と足音が聞こえてきた。
目の前に、人の足が見える。
ゆっくり顔を上げると、優しい顔をした男の人が私たちに手を差し伸べていたーーー
ーーーーーーーーーー
「これを飲む?」
「そうさ。これを飲めば、これから人の子のような姿になれるんだよ。…でもね、もしかしたら記憶がなくなってしまうかもしれない。」
「記憶……」
「八十はもう飲んだのだけど、八十は問題なかった。桃も飲んでくれるね?」
「……うん。」
本当は怖くて仕方がないけれど、拾ってもらった身では言いづらくて。
恐る恐る、手に取った薬は不思議な色をしていた。
サラ…と紙の上で動く粉。藤色のような、水色のような、桜色なのか。見る角度によって色が変わるのかな。
私は少し眺めてから、意を決して口の中に流し込む。
その後すぐに水を飲むと、何とも言えない甘さが口の中に広がった。
何、これ………。
そんなことを思った直後、意識が闇の中へ落ちていった。
…急に、今までの夢が少し繋がった気がした。
八十…は、八十治。兄が誰なのか、とか人の子のような、が何なのかとか他のことわからないけれど。
昨日見た夢は幼い頃の記憶。
八十治は、弟だったんだ。私が記憶を無くしていただけで。
ーーーーーーーーーー
「八十……」
「どうしました、桃華様?」
「…遅くなってごめんね。」
起き上がり、おもむろに言うと八十治は不思議そうな顔をした。
「何がです?」
夢が正しければ、八十治は昔のことを覚えている。…私のことも、覚えている。
「前みたいに呼んでくれないかな。」
「…前?」
怪訝そうな顔の下に、驚きもちらついているのがハッキリとわかった。
やっぱり八十治、覚えているんだ。
「……もも姉、って。」
「っ!?」
八十治の顔が、一瞬にして驚愕に染まった。
瞳が揺らぐ。口が震える。
「…っしかし、現在は主従関係。そう簡単には言えません…」
俯きがちに言う八十治。
私は一つため息を吐いた。
「そもそも、何故こうなったの?記憶を無くした私が一番悪いけれど、何も主従にしなくて良いじゃない。」
「……側にいるのに一番都合が良かったから、だそうです。近所に同年代の童がいる家はありませんでしたし、親族にするには色々考えなければいけないことがありました。」
「へえ…」
確かに、そうかもしれない。
親族にするって言うと、何で一緒に暮らすのかだとか両親はどうなのかだとか色々気になることができるだろう。
「本来、そうそう記憶なんて戻らないんです。だから俺たちはこういうことになった。
……なんで……」
八十治は一旦言葉を切ると、不意に私に抱きついてきた。
驚きに、目を見開いて固まる。
「……なんで今更思い出すの、もも姉のばか……!!」
「八十…」
八十治が、急に弟の八十に変わったような気がした。
それほどまでに幼く、儚く思えたんだと思う。
今まで、どんなに辛かったんだろう。
兄と離れ離れにされて、姉に忘れられて。姉のお付きになって。
八十治の涙がじわりと、私の着物に染みる。
………ん?
………………兄?
「………そう…言えばさ、八十。」
少ししてから言うと、八十治はきょとんとした顔をしながら私に向き直った。
「あの薬って何だったの?あと、兄って……」
少し、困ったような顔をする。
「……薬については何も言えません。
…そして、兄は…」
八十が次に放った言葉に、私は息を飲んだ。
「……藤堂、平助。
元新選組八番組組長、現御陵衛士の藤堂平助です。」
「…嘘、でしょ?」
少しの間があってから、小さく囁くように言う。
しかし、八十治は淡々とそれに返した。
「俺たちは、兄のことを『平兄』と呼んで慕っていました。桃華様の本当の名前は、藤堂桃華(ももか)。」
「桃華?」
「俺が、もも姉が記憶を無くしてから、桃華(とうか)にしてほしいと言いました。」
どういうことだかわからなくて、首をかしげる。
「姉だと、あまり認識したくなかったのです。名前が違えば、少しは気がまぎれるような気がしました。自分の主として、接することができるような気がしました。」
あまり効果があるようには感じませんでしたが、と八十治は切なげに笑う。
その笑顔を見ると、余計に自分を責めたくなってきて。
何であのとき記憶を無くしたんだろう。何で八十治のことまで忘れてしまったんだろう。
薬の副作用に負けた己が情けなくて、悔しくてしかたない。
「桃華様、あまりご自身を責めないでください。俺は桃華様のことを恨んではいません。」
「でも…」
「でもも何もないよ、もも姉。」
八十治の優しい声に、ポロ…と涙がこぼれた。
「そんなことより。」
八十治が急にハッとしたような顔をするから、私もつられて顔を上げる。
「もも姉のこと、どう呼びましょう?桃華様でも良いんですが…
………もも兄?」
真面目な顔でそんなことを言うから、涙なんて吹き飛んでしまった。
吹き出すように笑ったから、鼻水が垂れそうになる。
…いや、実際には垂れなかったけれど。
「うん、それで良いんじゃないかな。今までの分もいっぱい甘えてね。」
八十治を覗き込むように言うと、八十治は少しだけ嬉しそうに笑った。
「わかりました…もも兄!」
「ぶふっ!!」
しばらくはまともに返事できそうにないや。
「…ああ、一つご報告したいことがありまして。」
ふと思い出したように八十治が言う。
何、と目で問うと、八十治は言いにくそうな顔をした。
「誠一郎様の、ことなんですが…」
「うん。」
「人に聞いたり、副長に聞いたりしたところ、明確な入隊理由はわかりませんでした。
…なので、後をつけたりその他諸々したところ、一つ浮き上がったものがありました。」
その他諸々がものすごく気になるんだけど。何したの八十治。
そんなことを考えていると、八十治は「秘密です」と怪しい笑みを浮かべた。
「待って何でわかったの。」
「顔に書いてありますよ。
…それで、なのですが。」
ふと真面目な雰囲気になり、何となく姿勢を正す。
じっと八十治を見つめて待つと、やがて八十治は話し始めた。
「…一番組に、山野八十八という隊士がいますよね。」
「うん。」
山野八十八さん…美男五人衆、なんて囁かれているものすごく綺麗な人だ。
話したことはあまりないけれど、穏やかな声で優しい人だった気がする…。
でも沖田さんは「人は見かけによらないよ。絶対に怒らせないようにね?」なんて言っていたような。
「その隊士に、一目惚れ…した…とか……」
「………………………はっ……………………?」
予想の斜め上をいく内容に、言葉が咄嗟に出なくなった。
日が沈み始めた外を、カラスが鳴きながら飛んでいく。
その鳴き声だけが、静かに部屋の中に響いていた………
