生き方
- 〜 The fact that people live -
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ここは日本のとある田舎。
私は十六年前に、この地で産声を上げた。まだ未成年だ。
昔からこの場所は鄙びており、近くにはコンビニが一軒あり、他は田園風景しかない。
スーパー等は遠出になるので車が無いとろくに暮らせないのではないかと思う。
だが、バスはほんの少し通っている。
私の名前は悠太。石島悠太だ。
特に目立ってはいない、まるで自分の部屋の窓から見える田園風景のようにシンプルで良いと思っている。
先述のように、私はまだ未成年。生まれてから大した経験もしておらず成人に比べれば今まで生きてきて学んだ事も少ない。
そして、今自分が生きている意味と言うのも詳しくは分からない。好きな物や事はまあ、ある。
だがそれらの為だけにこれから生きるというのも自分が生きている意味に値するのだろうか。少なくともこれは遺書ではない。自殺するつもりなど毛頭ない。
私の考えでは今のところ、人の役に立って生きるという事が生き甲斐となれば生きる意味になるのかもしれない。と思っている。
生きている意味を特に感じた事はないし、感じるものかさえも分からない。世の中は分からない事だらけだ。きっとそれは追々学んでいくのだろう。
私はとある私立高校に通う一年生だ。
第一志望校の公立高校の結果は不合格で、家から遠くにある私立高校に通っている。近くには駅に行くためのバスが通っている。朝は一時間に二本のバスが通る。乗り遅れたら母に駅まで送ってもらわないと遅刻してしまう。なので、朝は早く起きる。思い描いていた高校生活と違って、あまりにもつまらなく、退屈な日々を送っている。
私は中学時代によく、変わっていると言われていた。自分自身、変わっているとは思わないが、好奇心旺盛で、様々な事に興味を持った。
私の中学時代の時は、男子中学生の好きな物と言えばゲームであった。ゲームセンターに有るようなゲームや家庭用ゲーム、携帯用のゲーム、パソコンのゲーム等、幅広く種類がある。
でも私はあまりゲームは好きではなく、趣味の話はあまり通じなかった。
私の趣味は一人旅であった。綺麗な景色が好きで、それを求めて電車で遠出してみて、幻想的な景色に現を抜かしたりした。見た事も無いような綺麗な景色を見るのが好きだ。
深山幽谷に出向いてみたく思ったが、行動に移す前に親に止められた事もあった。
このような感じなので、クラスの友人とも話題が合うことは無かった。私が好きな物(物というより学問)といえば宗教や哲学が好きだった。これ位しか思いつかないので好きな物と形容した。宗教や哲学は今でも好きでいる。
物事に深く考えがちな私は哲学がとても好きであり、不思議に満ち溢れた宗教もとても趣があって良いと思う。高校では中学と違い、様々な物事を習う。哲学等が好きな私は、所謂文系なのだろう。理数系は特に苦手だ。数学は公式さえ覚えたとしても答えを導き出すのは難しい。理科は分野によって異なるし、興味もない事を暗記するのは私にとっては苦手であり、計算もまた苦手である。
ただただ考えるのは好きだ。数学は苦手であるが嫌いではない。よく、「数学を勉強しても将来何の役にも立たない」という言葉を耳にする。だが、我々の身の回りの物や家さえも数学で出来ていると考えると、数学の偉大さには驚かされる。それに全く将来役に立たないという事は無いだろうし、数学で学んで身に付けたことが将来もしかしたら自分の仕事で必要になるかもしれない。
学校で学ぶ学問のうち、後々自分が気付いていくことも既に学んでいて、後から自分の成長に気づくのだろう。と私は思う。
普段何気なく受けている授業、休日、諸々合わせて自分は少しずつ少しずつ、心も身体も成長し、考え方や物の捉え方も変わってゆくのだ。
今年見る桜、来年見る桜も全くの別物だ。
そこには一年の隔たりを経て成長した、考え方や物の捉え方の変わっていった自分がその桜をどう捉えるかによって、そこで自分の成長に気づく。たった一年といえど、一年で考えたり、学んだりする事は沢山ある。
365日というのも短いようで実は長いものなのだ。
高校に入学して早1ヶ月、この1ヶ月で学べた事は如何程あるだろう。
記録として日記に纏めてみたりすると自分がどんな風に日々を過ごしていったのかが細かく分かるかもしれない。今日からつけてみようと思う。
私はまだ高校一年生。これからの人生はきっと長いだろう。もしかしたら事故や病気にかかって早死にするかもしれない。将来の事は言い切れないが、長生きしたいと思う。
人生は一度きりだ。
今の所、私はそう思う。輪廻転生という言葉がある。人は死んだら別のものに生まれ変わり、また一生を過ごす。という事の繰り返しだ。
それは思想の一つなので、確実な事ではない。
本当にまた一生を過ごせるのなら、過ごしたいと思う。だが確実に分かっている事といえば、この人生は一度きりだ。絶対に別のものに生まれ変わるなんて言い切ることは出来ないし、まず、死んでしまって、魂が何度も生まれ変わるかどうかすらも分からない。死んだら肉体のみを置いて魂が何処へ向かうのかも分からない。
魂があるのかすらも分からないのだ。非常にミステリアスな話だ。だから宗教思想というのは自分自身の考え方が変わっていったりするので趣がある。このような考え方もあるのだなと学べる事も多くあるのだ。私は自分の心の拠所が宗教であったりする。一つ言えるのは、この一生を大切に生きていく事だ。
生きる意味が感じられなくてもこれから生きていけばきっと感じられる。人生は楽しい事も多い反面、辛い事だってある。0から始まり、それが+、-となって結果+にしていくものだ。今自分が生きている意味が無いと感じられるなら(私もそうだが)生きる意味を見つけるために生きる。事が大事だろう。かなりあやふやだが、これから過ごしていって、自分の知らない所で「本当の意味」を見つけていて、後々気づいていくのだと思う。
そんな考えで私は過ごしている。
何気なく、何気なく、休日を過ごし、アンニュイな気持ちで学校生活を過ごしてゆく。
ただ話す程度の友達なら沢山いるが、家に呼ぶ程仲が良い友達というのはてんでいない。
沢山いる友達とは言っても、その中で、相手は自分の事を友達と思っているかは定かではない。ふと思ってみれば私は前向きでも後ろ向きの性格でもある。だから人間関係の事はあまり気にしすぎないようにしている。
それから三年の月日が経った。
私はこの三年間で学べた事はきっと数え切れない程だろう。日記を見返してみるも、非常に多い。楽しい思い出や大変だった事も勿論沢山ある。入学して直ぐはつまらなかった。だが今思い返してみればあっという間で、とても楽しく、今の人生は+に傾いている。
これから大学に進学し、そして就職し、楽しい人生を送っていくだろう。
私は三年前とは変わったんだ。それを実感している。まだ生まれて19年。
この19年で学んできたことは決して無駄ではないだろう。これが私の「生き方」である。
生き方には個人的な考えが多く含まれる。
自分らしさと自分の判断が自分の一生を左右する。人に流される人生はろくなものではないだろう。
貴方も自分らしく、無理せずに最高の生き方で過ごしましょう。
ではまた何処かで。
私は十六年前に、この地で産声を上げた。まだ未成年だ。
昔からこの場所は鄙びており、近くにはコンビニが一軒あり、他は田園風景しかない。
スーパー等は遠出になるので車が無いとろくに暮らせないのではないかと思う。
だが、バスはほんの少し通っている。
私の名前は悠太。石島悠太だ。
特に目立ってはいない、まるで自分の部屋の窓から見える田園風景のようにシンプルで良いと思っている。
先述のように、私はまだ未成年。生まれてから大した経験もしておらず成人に比べれば今まで生きてきて学んだ事も少ない。
そして、今自分が生きている意味と言うのも詳しくは分からない。好きな物や事はまあ、ある。
だがそれらの為だけにこれから生きるというのも自分が生きている意味に値するのだろうか。少なくともこれは遺書ではない。自殺するつもりなど毛頭ない。
私の考えでは今のところ、人の役に立って生きるという事が生き甲斐となれば生きる意味になるのかもしれない。と思っている。
生きている意味を特に感じた事はないし、感じるものかさえも分からない。世の中は分からない事だらけだ。きっとそれは追々学んでいくのだろう。
私はとある私立高校に通う一年生だ。
第一志望校の公立高校の結果は不合格で、家から遠くにある私立高校に通っている。近くには駅に行くためのバスが通っている。朝は一時間に二本のバスが通る。乗り遅れたら母に駅まで送ってもらわないと遅刻してしまう。なので、朝は早く起きる。思い描いていた高校生活と違って、あまりにもつまらなく、退屈な日々を送っている。
私は中学時代によく、変わっていると言われていた。自分自身、変わっているとは思わないが、好奇心旺盛で、様々な事に興味を持った。
私の中学時代の時は、男子中学生の好きな物と言えばゲームであった。ゲームセンターに有るようなゲームや家庭用ゲーム、携帯用のゲーム、パソコンのゲーム等、幅広く種類がある。
でも私はあまりゲームは好きではなく、趣味の話はあまり通じなかった。
私の趣味は一人旅であった。綺麗な景色が好きで、それを求めて電車で遠出してみて、幻想的な景色に現を抜かしたりした。見た事も無いような綺麗な景色を見るのが好きだ。
深山幽谷に出向いてみたく思ったが、行動に移す前に親に止められた事もあった。
このような感じなので、クラスの友人とも話題が合うことは無かった。私が好きな物(物というより学問)といえば宗教や哲学が好きだった。これ位しか思いつかないので好きな物と形容した。宗教や哲学は今でも好きでいる。
物事に深く考えがちな私は哲学がとても好きであり、不思議に満ち溢れた宗教もとても趣があって良いと思う。高校では中学と違い、様々な物事を習う。哲学等が好きな私は、所謂文系なのだろう。理数系は特に苦手だ。数学は公式さえ覚えたとしても答えを導き出すのは難しい。理科は分野によって異なるし、興味もない事を暗記するのは私にとっては苦手であり、計算もまた苦手である。
ただただ考えるのは好きだ。数学は苦手であるが嫌いではない。よく、「数学を勉強しても将来何の役にも立たない」という言葉を耳にする。だが、我々の身の回りの物や家さえも数学で出来ていると考えると、数学の偉大さには驚かされる。それに全く将来役に立たないという事は無いだろうし、数学で学んで身に付けたことが将来もしかしたら自分の仕事で必要になるかもしれない。
学校で学ぶ学問のうち、後々自分が気付いていくことも既に学んでいて、後から自分の成長に気づくのだろう。と私は思う。
普段何気なく受けている授業、休日、諸々合わせて自分は少しずつ少しずつ、心も身体も成長し、考え方や物の捉え方も変わってゆくのだ。
今年見る桜、来年見る桜も全くの別物だ。
そこには一年の隔たりを経て成長した、考え方や物の捉え方の変わっていった自分がその桜をどう捉えるかによって、そこで自分の成長に気づく。たった一年といえど、一年で考えたり、学んだりする事は沢山ある。
365日というのも短いようで実は長いものなのだ。
高校に入学して早1ヶ月、この1ヶ月で学べた事は如何程あるだろう。
記録として日記に纏めてみたりすると自分がどんな風に日々を過ごしていったのかが細かく分かるかもしれない。今日からつけてみようと思う。
私はまだ高校一年生。これからの人生はきっと長いだろう。もしかしたら事故や病気にかかって早死にするかもしれない。将来の事は言い切れないが、長生きしたいと思う。
人生は一度きりだ。
今の所、私はそう思う。輪廻転生という言葉がある。人は死んだら別のものに生まれ変わり、また一生を過ごす。という事の繰り返しだ。
それは思想の一つなので、確実な事ではない。
本当にまた一生を過ごせるのなら、過ごしたいと思う。だが確実に分かっている事といえば、この人生は一度きりだ。絶対に別のものに生まれ変わるなんて言い切ることは出来ないし、まず、死んでしまって、魂が何度も生まれ変わるかどうかすらも分からない。死んだら肉体のみを置いて魂が何処へ向かうのかも分からない。
魂があるのかすらも分からないのだ。非常にミステリアスな話だ。だから宗教思想というのは自分自身の考え方が変わっていったりするので趣がある。このような考え方もあるのだなと学べる事も多くあるのだ。私は自分の心の拠所が宗教であったりする。一つ言えるのは、この一生を大切に生きていく事だ。
生きる意味が感じられなくてもこれから生きていけばきっと感じられる。人生は楽しい事も多い反面、辛い事だってある。0から始まり、それが+、-となって結果+にしていくものだ。今自分が生きている意味が無いと感じられるなら(私もそうだが)生きる意味を見つけるために生きる。事が大事だろう。かなりあやふやだが、これから過ごしていって、自分の知らない所で「本当の意味」を見つけていて、後々気づいていくのだと思う。
そんな考えで私は過ごしている。
何気なく、何気なく、休日を過ごし、アンニュイな気持ちで学校生活を過ごしてゆく。
ただ話す程度の友達なら沢山いるが、家に呼ぶ程仲が良い友達というのはてんでいない。
沢山いる友達とは言っても、その中で、相手は自分の事を友達と思っているかは定かではない。ふと思ってみれば私は前向きでも後ろ向きの性格でもある。だから人間関係の事はあまり気にしすぎないようにしている。
それから三年の月日が経った。
私はこの三年間で学べた事はきっと数え切れない程だろう。日記を見返してみるも、非常に多い。楽しい思い出や大変だった事も勿論沢山ある。入学して直ぐはつまらなかった。だが今思い返してみればあっという間で、とても楽しく、今の人生は+に傾いている。
これから大学に進学し、そして就職し、楽しい人生を送っていくだろう。
私は三年前とは変わったんだ。それを実感している。まだ生まれて19年。
この19年で学んできたことは決して無駄ではないだろう。これが私の「生き方」である。
生き方には個人的な考えが多く含まれる。
自分らしさと自分の判断が自分の一生を左右する。人に流される人生はろくなものではないだろう。
貴方も自分らしく、無理せずに最高の生き方で過ごしましょう。
ではまた何処かで。
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